2013年 8月25日 礼拝メッセージ 

「信仰と豊かな刈り入れ」
マルコによる福音書12章38-44節

 先週は教区の2泊3日の研修旅行が北陸の片山津温泉のホテルで行われました。ここは温泉地ですが、ホテルが湖の周りに点在し、宿泊したホテルは広々とした田圃の中の広大な敷地にありました。部屋からは田圃が広がり穂は黄色くなっていて、のどかで美しい景色が広がっているのが見えました。もうすぐこの稲穂は刈り入れを迎えるのだなあと思って見ていると、豊かな刈り入れを喜ぶ農家の人々の気持ちが思い浮かぶのでした。春先に苗をしつらえ梅雨の雨を待って田植えが始まり、除草を行い、熱い夏の日照りに育てられて収穫の秋を待つのです。実りの秋は喜びの時です。詩編の「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈りいれる。」(詩篇126:5)という詩が浮かんできます。田を荒起しし、水を張り、苗を育てて植え、水に心を配り見守って秋を迎えるのです。詩編はそのような労苦を示しながら私たちの信仰について歌っている  
のです。人の人生には様々なドラマがあります。人生には植えれば育ち、時が来れば収穫があるという繰り返しではなく、挫折があり、思いもしない病苦が襲い掛かることや、世の流れの中、逆境に甘んじなければならない時もあります。しかし、聖書は「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。…わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。」(Ⅰコリント1:3,6,7)イエス様を信じる信仰は、人の生き方を根本から変えて下さるのです。神様を信頼する日々は、「揺るぎない希望」に生かされるのです。神の栄光に預かる希望に生きる事を誇れるのです。
この希望の誇りは、「苦難をも誇り」にできるのです。(ロマ5:2,3)この心境を最も明確に告白している使徒パウロの言葉は、「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4:11-13)です。そしてこの信仰による心境の根本的な心情は「喜ぶ」ことです。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(フィリピ4:4)これは決して諦めの境地ではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる希望の確信による「喜び」の力なのです。この信仰は、キリスト、即ち、福音よって救われたクリスチャンの交わり、聖霊の交流の中に結ぶ結果であるのです。キリストへの信仰が見失われるところには分裂と猜疑、不信と喧騒となり、希望が失われ、平安が破壊され、一致が失われることに成ります。この信仰の秘訣はイエス・キリストによって一人一人が結ばれる時に、一致と平和が保障されるのです。「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」(ヘブル11:2口語)イエス・キリストだけを見上げ、従う時に神様の御心が、祝福が現実に成るのです。
 今朝の聖句はマルコによる福音書12章の38節から44節ですが、前半はイエス様が「律法学者を非難」する項目と、後半は「やもめの献金」を巡って信仰の本筋を主は教えておられます。
 律法学者の信仰行動を通して、神様を信じる信仰者の真実のあり方を示されるのです。その第一の指摘は、「偽善」です。「長い衣を着て歩きまわる」ことに注意を向けられるのです。当時の律法学者は今でいう「法衣」である黒い長い衣を着ていました。警官が制服を着ている時、制服の権威によって、平服をまとっている時と人々の反応が違うのです。律法学者が長い衣を着て歩く時、その衣は、律法学者として律法に通暁し、その適応も完全であることを意味するのです。それは落ち度のない「義」なる人、神の人を意味していたのです。その中身はいざ知らず「長い衣」を身に着けることは、その人の満足となり、いつしか自慢、自慢が高慢となり人々を見下げるようになっていたのです。律法学者は、庶民は律法を知らない、不完全にしかその適応が出来ない。それは不完全であり、不義であり、罪人であると決めつけていたのでした。イエス様はこの律法学者に対して辛辣な批判をされているのです。(マタイ23:)「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。」とその偽善性を指摘されています。クリスチャンも無自覚の内に信仰生活の中で長い月日に、この偽善性に陥っていることがあります。だからいつもイエス様の言葉に立ち返り、十字架の言葉、神でありながら、人となり、しかも僕として十字架の犠牲の道を歩まれたイエス様を忘れてはならないのです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6-8)この御言葉はキリストの「謙遜」を表す聖句として重要な意味をもっています。神様の御心に従順であることは、「神様の愛」に生きることを示し、その神の愛の命、品性こそ「謙遜」であるのです。それが真実の神様の本質を表していると言えるのです。この「愛」に基づく「謙遜」こそは、信仰の命であり、聖霊の実であるのです。第二に、律法学者は「見栄」に生きる人であったと言えます。それはまさしく「見せかけ」であるのです。会堂で上席に座り、「見せかけ」の長い祈りという聖書の言葉はプロフアーシス(πρόψασις)口実、言い逃れ、弁解、振り、などの意味があります。祈りの本意から外れて「見せかけ」の真意のない偽善的な祈りと言えます。神様に祈るのではなく、人にどのように思われているかを気にしながら、「見せかけ」の祈りをするのが常であったのです。神様に聞いて戴く祈りでなく、自分が偉い律法学者であるように見せる祈りであったのです。真実の祈りは、キリストによって罪赦されて神様の交わりが回復されるところに始まるのです。人に聞かせる祈りは真実の祈りではないのです。救われ、神の子とされた喜びの産声であるのです。その産声こそは賛美であり信仰の告白であるのです。
 第三に、イエス様は、律法学者が「やもめ」の家、経済力のない人を「食い物」にする現実を厳しく指摘されるのです。創造主に導かれ、罪赦されて神様の子とされ、喜びの捧げものによって神に感謝します。神様に、命を委ねられ、生かされ、守られていることを信仰によって初めて自覚できるのです。「感謝」の喜びこそは信仰の恵みであり、実であるのです。見栄や、見せかけ、虚栄の信仰は、絶えず、人を気にして、人にへつらい、人を見下す偽善的な生活に陥ることになります。「感謝」の心に生かされ、生きる時に、そこに主に捧げる人生が始まるのです。エルサレムの神殿では多くの人が礼拝に集い、「感謝」を献金に表し捧げていました。金持ちの人たちが多くの献金をしている様子をイエス様はご覧になっていました。その中で一人の貧しいやもめがレプトン銅貨2枚をささげました。レプトン1枚は128分の1デナリであったいうのです。1デナリが労働者の一日の日当でした。その時、イエス様はこれを見て弟子達に言われました。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ12:43)金持ちは、有り余る中から献金したが、この貧しいやもめは持っているもの全てを、生活費全部を捧げたから、誰よりも多く捧げたと指摘されている。言換えれば、貧しいやもめは、貧しいから献金できないのではなく、神様へ感謝への喜びがそのようにさせたのです。
 捧げものは、1、信仰の感謝、喜びであるのです。2、献身の証です。3、宣教の実践です。イエス様を信じる信仰は「見せかけ」ではなく、神様に愛されている喜び、命にいかされている感激こそが、豊かな信仰のみのりであるのです。

 

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