2013年 9月1日 礼拝メッセージ 

「賛美と祈りの日々」
ペテロの手紙Ⅰ 2章1-5節

 聖書には頭の中で考えると理窟に合わないことがよくあります。その一つに「選ばれている」ということがあります。イエス様を信じて、福音を受け入れてクリスチャンになります。あくまで受け入れるのは各自の行為ですから、多くの道からイエス様の救いを受け入れたと思っています。しかし、聖書を読むと「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと。」(ヨハネ15:16)とあり、また「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(Ⅰヨハネ4:19)とあります。神様に選ばれている私、神様に愛されている私は、イエス様を信じて、救いを経験してから自覚できることであるのです。イエス様を信じて受け入れる時、父なる神様の命と創造の根源者であることを知り、神様の恵みを自覚できるのです。そして子なるイエス・キリストを通して真実の神の御姿であり、本質である「神様の愛」が、創造の目的と命であることを明らかにされているのです。イエス様を通してはじめて神様の姿が明らかにされたのです。「私を見る者は、私を遣わされた方を見るのである。」(ヨハネ12:45)「私を見た者は、(神)父を見たものだ。」(ヨハネ14:9)と言われています。ですから、イエス様は神様の真意を忘れ、離れた人々に捨てられ、不遇と思える最期を遂げられたのですが、それは人の為の尊い犠牲でした。「神の選ばれた尊い石である。」(Ⅰペテロ2:2)のです。そこでクリスチャン一人一人が「生きた石」として用いられ、「霊の家」を造り上げることを勧めるのです。言換えれば、クリスチャンは霊の家、即ち、キリストの「教会」を建て上げることであり、それぞれの教会を形成している家族を造り上げることをも指していると言えます。
霊の家、即ち、それは霊なる神様、聖霊なる神が臨在されるイエス・キリストの御体である教会を意味するのです。活けるキリストの教会で、キリストのみ言葉で養われた命で、個々の家族が、霊の石、キリストを土台として約束の恵みが稔る家族として建て上げられるように教えているのです。
「あなた方は、主が恵み深い方だということを味わいました。」(Ⅰペトロ2:3)ここで用いられている「恵み」という言葉はキレーストス(χρηστός)という言葉で、聖書の原語(ギリシャ語)で、「役に立つ」「良い」「親切な」「情け深い、恵みと慈愛に満ちた」というような意味があります。主イエス様は、クリスチャンにとって恵みと慈愛に満ちた、情け深く、私を生かすために役立って下さる方であることを知っているのです。それは知識として知るのでなく「味わう」、体験的に、事実として神様が生きて働いていて下さることを経験していることを意味しています。正に確信であり、全人格的な命としての経験であるのです。主「キューリオス」である方が「キレートス」であるというのです。ほとんど同じ言葉に聞こえるこの言葉は、主は、主であるということに成り、主ご自身が、恵みと慈愛、情け深く、人を真実に生かして下さる方である事を示しています。
 この方を「味わっている」体験している。それは、人の救いの尊い礎石であり(:4)、その石、即ち救いの礎石であるイエス・キリストを私たちは信じているのですから、このお言葉、「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:19,20)が示しているようにキリストを信じることは、活けるキリストを内に頂き、キリストが私の内、体即ち、全人格のうちにいて下さることに成るのです。“私が生きているのでなく、新しい命、キリスと共に生きるキリストの命に生かされている”という意味であるのです。ですから、クリスチャンはイエス・キリストの救いの石、即ち、神の恵み、憐れみ、慈悲、良いものを持っているのです。
そこで次の言葉が示されるのです。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。」(Ⅰペテロ2:5)
 第一に、「霊的な家を造り上げる」ことが求められています。霊的な家とは、キリストの臨在される家を指している。家庭をキリストの臨在の場、キリストが「石」、土台となって築き上げられるようにというのです。日本のクリスチャンは、家族の中で1人のケースが多いのですが、1人であっても、家族のために祈り、幸せのために祈るクリスチャンであることが大切です。あなたを通して家族が真の神様の愛と恵みに生かされ守られることを信じましょう。家族とは、子供にとって選ぶことが出来ない命の繋がりです。家族は一緒に生きるようにあるのです。ですから家庭に一人がクリスチャンとしてあるなら、そこに祝福の恵みの鍵を神様が下さったと信じることが出来ます。多くの家族のために1人のクリスチャンを送っておられるのです。家族がみなクリスチャンの時は父親が中心に成って「家庭を“霊的な家”」として造り上げ、キリストの臨在の祝福の内に家庭が営まれるようにすることを、み言葉は教えているのです。クリスチャンは、仏教のように仏壇や神棚をおきません。家庭においては信仰をいつも家族が自覚するような環境を造りたいものです。家の中にはみ言葉の額を掲げ、心にいつも留まるように配慮するのです。時には聖画を掲げ、家族の写真を掲げ、時には先祖の記念の写真なども掲げ家族のつながりを思い、回想し、記念することも大切です。礼拝は記念であり、思いだすことです。記念するということが、今、現実に生きてる自分の慰めとなり励ましとなるのです。イエス様を思い出し、共に生きて下さる喜びを分かち合うのが礼拝であるのです。祖先もイエス様にあって家族と共に礼拝する家族であるのです。霊的な家とは礼拝のある家です。
 特に食事は礼拝の時です。お父さんが“祭司”であって、み言葉を読み、神様の恵みを語り、祈るのです。みんなで賛美をするのです。申命記の6章には神の家族が礼拝する姿が記録されていいます。神の選び、危機からの救いを感謝し、祝福の日々を回想して家族のために祈るのです。クリスチャンは演歌を歌う人もありますが、演歌は世を儚み、別れのつらさを歌うことが常です。クリスチャンは賛美歌を歌います。ゴスペルを賛美します。神様への感謝と栄光の素晴らしさを讃えるのです。ヘブル書には「イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。」(ヘブル13:15,16)とあります。家庭礼拝を持つ習慣を築き、賛美がいつも家に響くように心がけましょう。家庭こそキリストの教会、キリストの祝福、恵みと慈愛が溢れる癒しの場であるように努力しましょう。一人の時も、一人で努力をして礼拝し、キリストが共におられる喜びを実感し、感謝し、賛美を捧げましょう。家庭の祝福と家族の救いを祈りましょう。
 第二に、キリストが“生きた石”である。そして“あなた方も自身も生きた石”と言われています。石は土台を意味します。信仰の土台です。「 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(Ⅰペテロ1:8,9)この言葉は「主が恵み深い方だと知っています」(2:3)というように、「恵み深い」方であるキリストを見てはいないが信じており、「喜びに満たされ」信仰のみのりとして「魂に救いを得ている」というのです。これが土台の気持ちであり、その土台のあるところに「賛美」が生まれます。その土台の上に「生きた霊的な家」を立てることは活けるキリストが共におられるところ、キリスト信じ、愛し、言葉にい尽くせない、言葉に成らない喜びの感情が満ちるのです。そこには賛美が生まれます。その賛美は信仰の告白であり、正に礼拝であるのです。礼拝が信仰を育てます。その礼拝でみ言葉を聞き、賛美を捧げるのです。「賛美は生け贄」(ヘブル13:15)であるのです。「生け贄」とは旧約時代に神殿で礼拝する時、神様に自分の献身を表す為にささげた、燔祭をさします。賛美は献身の告白でもあるのです。「生きた石」は生きた信仰に他なりません。目には見えないが、信仰によってキリストを見ている、生きておられる、復活されたキリストが共におられるのです。その霊的な土台の上に霊的な家、教会が立つのです。賛美と祈りに満ち溢れて教会は成長します。キリストの教会の実は、それぞれの家庭でその実が育ち、家庭の実が教会の稔りとして結ぶのです。教会と家庭は同心円です。家は教会であり、教会は家であるのです。
 第三に、「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」(Ⅰペトロ2:9)
神殿の礼拝では祭司が礼拝を取り仕切り、民のために執り成しの祈りをささげました。しかし、新約の時代、イエス様の教えによる新しい「霊の家」、教会は、「あなたがた、イエス様を信じた選ばれた人たち」こそ祭司であり、神の民であるというのです。そして、その使命は祭壇に犠牲をささげるのでなく「力あるイエス様の業を広く宣べ伝えるのです」と宣言しています。言換えれば特別な人だけが伝道師、御言葉を語るのでなく、「選ばれたクリスチャン」一人一人が祭司であり福音を語る伝道者であるのです。」ルターが、中世の教会が制度化して、祭司の執り成しと赦しの宣言で悔い改めが認められ、信仰が保障されるとした教会のあり方を批判して、どのような人も、神に選ばれた活けるキリストを信じる信仰によって、その人の中に救いと喜びがあれば、全ての人は活けるキリストの力ある業と救いを広く宣べ伝えるのであると、聖書の教えによって確信しました。それを「万人祭司説」と言い、私たちは「万人伝道者」と言います。クリスチャン一人一人が活ける信仰の石であり、霊的な家、教会、キリストの教会の土台となり、働き人とされて喜びを世界に伝えるのがキリストの活きた教会の姿であるのです。
 教会全体が、一人一人が賜物に生かされ、福音の宣教、霊の家を建て上げる喜びを分かち合おうではありませんか。

 

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