2013年 9月8日 礼拝メッセージ 

「豊かな聖霊の実」
ガラテヤの信徒への手紙5章19-25節

 秋になりました、稲刈りが進むごろです。丹波に行くと晩秋、真っ赤な柿が鈴なりになっている情景を見ることができます。何ともいえない風情です。豊かな実りは心を和ませるものです。同じように植えても、実を結ぶはずの枝に花も咲かず、実が実らなければ失望も大きいと言えます。
 イエス様は共観福音書の中で、「種まきの譬」を話しておられます。道に蒔かれた種、石地に蒔かれた種、茨の間に落ちた種があった。道に蒔かれれば人が踏みつけ死んでしまう。また石地では根が生えることなく育たない。茨に囲まれると茨にはばまれ育たない。イエス様はたとえで教えておられますが、共通していることは「主の言葉」が色々な心遣いや、誘惑に唆されて失われるのです。それは「根付く」ことがないのです。そして、良い地に蒔かれた種は、み言葉を聞いて悟る人であり、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶと教えられました。(マルコ4:1-20)
イエス様に出会ってクリスチャンにされたのは、「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを(クリスチャンに)任命したのである。」(ヨハネ15:16)というみ言葉にあるように「実を結ぶ」ことにあるのです。それはとりもなおさず「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(:8)実を結ぶことは「神様に栄光」をお返しするためであるのです。言換えればクリスチャンの人生の目的は、正に「神の栄光を表す」ことであるのです。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:20)と言われているのです。
 「栄光を表す」は聖書の言葉でドクサゾー(δοξάζω)といって、「賞賛する、賛美する、尊敬する」などの意味があります。神様の愛と力、その溢れる恵みを褒め称えることなのです。イエス様に於いて「神の栄光」が現わされた。言換えれば、霊なる創造主なる神が、人にして神であるイエス様に表されたのです。その栄光の極みは死からの復活であり、全能であり、愛と憐れみに満ちたもう父なる神が証しされたのです。ですから主イエス様は「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14:9)「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」(12:45)と繰り返して言っておられるのです。キリストを信じるということは、自分に死に、イエス様に生きることを意味するのです。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(Ⅱコリント5:17)「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20)このみ言葉がクリスチャンの姿を言い表しているのです。
 キリストが私の内に生きておられるということは、神、そのお方が神を信じる人の内に聖霊として内住されていることであるのです。現実には人の内は様々な誘惑や、神様の御心に違(たが)う欲求に翻ろうされることがあります。使徒パウロは、心の心情を「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。」(ロマ8:5-7)と告白しています。
 そこで何時も心に聖霊の満たしを求めることを勧めるのです。神の御心は「神様の言葉」から注がれるのです。主イエス様は「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(ヨハネ15:7,8)イエス様を信じることは、イエス様のみ言葉を信じることであるのです。信じることはそのイエス様の言葉を生きることです。イエス様の言葉は命の言葉であり、人を生かす言葉であり、救いの言葉であるのです。そのみ言葉から神の命、霊の命が実を結ぶことに成るのです。
言葉が人の内に消化されるには、受け入れる要素として「祈り」があります。み言葉は祈りによって消化され、人の心に適応されて命となりイエス様の人格に預かることになるのです。そこに聖霊の実が豊かに実ることになります。
使徒パウロは肉の働きと霊の実を明確に示しています。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:19-24) 神様の栄光がほめたたえられる「実」を結び、その実の素晴らしい祝福を結ばねばなりません。
その第一に、イエス様を信じる信仰の鍵は何でしょうか。イエス様の言葉、聖書を信じることです。信じることは「従う」こと、イエス様の言葉に生きることです。信じることは信頼であり、信頼のあるところに一致があります。イエス様を信じることは神様に愛されている自分の発見であるのです。愛されていることは守られていることに通じます。駆け引きの信頼でなく、真実に愛して下さる、その愛は犠牲が伴うのです。イエス様の十字架の出来事から神様の限りない愛の恵みを経験するのです。愛されている私に目覚め、愛する人に変えられるのがイエス様を信じる信仰の真髄であるのです。この神様の愛こそが命となり神の命、聖霊の実を結ぶ基礎になるのです。
第二に、イエス様を純粋に信じれば信じるほどイエス様に表された栄光、素晴らしさが信じる人に表され、実が実るのです。その品性の中心は、「愛」です。イエス様によって現わされた神様の愛、「神は愛なり」(Ⅰヨハネ4;8)と言われるように、イエス・キリストに表された十字架の愛こそ真実の神様の愛です。ガラテヤ書5章には「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤ5:22)とあり「霊の結ぶ実は愛であり」と先ず、「愛」を総括的に提示して「喜び、寛容…」と続きます。一般に御霊の実は9つとよく言われるのですが、神様の中心的な「愛」に全ての実が続くことに注意しなければなりません。神様の「愛」は提示している8つ以外にはないのでしょうか。使徒パウロはここでは日常的に誰でもが触れる徳目を上げていると言えます。御霊の実の中心が「愛」であり、その神様の愛の窮極はイエス様の十字架の犠牲に表されているのです。そのことによって信じるクリスチャンは「肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」(:24)。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6-8)ここに、御霊の実の核があると言えます。イエス様が示される神様の愛の核心は、「謙遜」であるのです。この謙遜から愛する者への「勇気」の力が生み出されるのです。その勇気の命、力が寛容、柔和、親切、善意となり、節制、誠実、柔和が実ることに成ります。イエス様を信じる信仰の実は、信じる人を通して神様の素晴らしさ、栄光が平和と一致を生み出すことになります。だからこそクリスチャンの実を結ぶ日々の歩みは「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」(ヘブル12:2口語)であるのです。
 第三に、御霊の実はイエス様を表す実です。神様を愛する実は、「優しさ」として人と人を結ぶ帯となります。クリスチャン品性の素晴らしさは、この「優しさ」にあります。イエス様はどんな苦境の中にある人も、孤独な人も、罪の深みに絶望している人も回復させる愛のお方であるのです。それは「優しさ」が「忍耐」となり「思いやり」となるのです。
イエス様の十字架の愛が、信じる人の心に実を結ぶことに成るのです。
 この様な神様の愛と恵みを人の内に形造ることは、形のない石から、神様の栄光を輝かす、実り多い人に造り変えることなのです。創造主にして愛なる神様を、イエス様を通して信じる信仰の遺産であるのです。イエス様を信じ、御言葉に生き、御言葉に従って実を結ぶクリスチャンになりましょう。

「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」(コロサイ3:12-17)

 

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