2013年 9月15日 礼拝メッセージ 

「主の約束と喜びに生きる」
マルコによる福音書16章14-18節

 2020年のオリンピック開催が東京に決まりました。招致のプレゼンテーションでの日本の代表者たちの素晴らしいトークとその情熱、会場の反応を報道で見ていると、これはうまくいくという雰囲気が伝わって来ました。そして東京に決まり大きな歓声となりました。代表者の中でも佐藤真海さんの健康的なスマイルとスピーチは、聞く人の心を引き付けたと思いました。彼女はパラリンピックを代表する発表者であったのです。先日、木曜日の祈梼会で、小川姉が真海さんのテレビでのインタビューを見て感動して証しをしてくれました。真海さんは気仙沼出身で早稲田大学に入り、チアリーダーとして青春の情熱を燃やしていた矢先、19歳の時、骨肉腫に健康を奪われ、右ひざから下を切断したのです。真海さんは東日本大震災の被害に出会った家族の経緯を織り交ぜながら、自らの試練を語った。右足下肢切断という不遇の中で、生きる希望を失った時、お母さんが、聖書の「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Tコリント10:13)という言葉を通して神様は必ず道を切り開いて下さることを教えてくれたというのです。神様は、どんな時にも可能性を与えて下さり、希望を備えて下さると約束しているというのです。真海さんはお母さんの語ってくれたこの聖書の言葉に支えられ、励まされて、水泳でリハビリに励みながら、やがてパラリンピックを目指すアスリートに成り、アテネ、北京、ロンドンパラリンピックに出場したのです。そして、ロンドンでは9位、国際パラリンピック大会(‘13)で銅メダルに輝きました。早稲田大学大学院を卒業後、サントリーに入社して活躍しています。
 人は言葉で生きるといわれますが、言葉には人を傷つける言葉、人を失望させる言葉があり、人に勇気を与える言葉もあり、人を力づける言葉もあります。聖書は「命の言葉」であると言っています。(使5:20)人を生かし、希望を与え、創造する力を与える命であるのです。イエス様は「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」
(ヨハネ6:63)と言われています。神の言葉は霊であり、命なのです。人に生きる力、命を与えるのは、人に備わっている霊性であり、神様からあたえられた生きる命であるのです。人がその命を神の言葉、神様の霊の言葉に満たされる時に、神様の御心に生きるものとされるのです。「あなた方に話した言葉」イエス様が語られた言葉は「命の言葉」であり、「恵みの言葉」、「救いの言葉」であるのです。人が生きることに絶望し、明日に生きる希望を失った時、人を生かし、再生させる“霊”が、“命”として心を勇気付け、再生させる命の力があるのです。
 美しく、聡明な真海さんのように、思いもしなかった骨肉腫になり、片足切断という障害を受けなければならない現実に直面する時、それでも「生きることが出来る、死ぬのではない」というような、通り一遍の言葉では現実の衝撃を癒やすことが出来ないのです。お母さんから聖書の言葉を聞かされた時に、生きる希望と力を与えられたのです。
 「“十字架の言葉”は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には“神の力”です。」(Tコリント1:18)十字架の言葉とは十字架の出来事を言い表してしているのです。そのことは「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)人の生まれながらの思いや力、即ち、「肉」の欲は、神を見失った世界を表し、罪深い人の性を言っているのであって、神様を見失った現実を言っています。それを「滅び」というのです。言いかえれば「地獄」とは、神の存在しない世界を言うのであって、それは死後の問題だけではありません。神様を信じ、受け入れる、即ち、神の言葉に生きる時に、「神の霊」即ち、神様の霊が生きる希望と力を与え、そこに安心と平和を回復させることが約束されているのです。まさしく神の国です。
 十字架の言葉こそは、人間の根源的な罪であり、神様を見失ってしまったという悲劇を救う命の言葉であるのです。イエス様が神として人を愛し、許し、受け入れて下さる恵みであるのです。「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」(ヨハネ14:6)イエス様は、世界の回復のために罪の贖いとして十字架の死の道を歩まれたのです。「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(Tヨハネ2:2)だからこそ、「十字架の言葉」は神を信じない、否定し、侮る人々にとっては「愚か」であるのです。しかし、信じる人にとっては「神の力」であるのです。
 人は、神に似せて創造されたのです。(創1:27)その特性の一つは、創造にあります。人は生甲斐をなくしては生きる意味がなくなります。そこには成るようにしかならないという空しさと、現実の間を無意味に過ごすことになります。人は、幼い時に「遊び」からまねることを通して「造る喜び」を学びとるものです。造る、人の役に立つことの喜びこそは、人を生かす支えになるのです。生きる喜びは造る喜びであるのです。人のために役に立ち、自分も役立つ自覚の中で生きる喜びが支えに成るのです。
 今日の高齢者社会では、誰でも年齢と共に体が不自由に成ります。その時には何もできず、助けられるだけで死を待つようになるのです。しかし、クリスチャンは、どのような時にも出来る、役に立つ、奉仕が出来るのです。このような時にこそ、「何時も喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて神があなた方に望んでおられることです。」というみ言葉が生かされるのです。(Tテサロニケ5:16−18。)たとえ寝たきりになっても、「有り難う」「感謝します」という言葉は、介護してくれる人々に喜びの思いを報いとして差し出すことが出来るのです。口が動けば祈れるのです。心の中で祈ることも出来ます。そして賛美し、感謝することは奉仕であるのです。
 イエス様は、十字架で死なれました。終わったようですが、それは新しい始まりであったのです。十字架は悲劇であり、敗北であるはずです。しかし、イエス様は「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)と言われました。十字架に死なれ、葬られたのですが、その後、イエス様の墓を確かめに行った婦人たちは、そこにイエス様はおられず、天の使いの「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」(マタイ28:5,6)という言葉を聞いたのでした。
 このことは、弟子達には受け入れることが出来ないことでしたが、復活のイエス様は幾たびか弟子たちに直接、傷跡を見せ、語りかけられ、やがて聖霊を受けることを約束され、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使1:8)という言葉を与えられたのです。
 そして、マルコによる福音書の最後に「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)とあります。暗黒と絶望から栄光と復活の勝利宣言であったのです。如何なる試練や逆境の中でも「逃れる道」、解放の道、救いの道を備えられているという約束です。この喜びをもって「全世界に行って、福音を宣べ伝えよ」と言われています。この言葉はクリスチャンにとって生きる、生かす、その為に生きる、生きる目的の言葉であるのです。
 第一に、「福音を宣べ伝える」ことは、福音の喜びに生きよということです。それは福音に生きて初めて伝えることが出来るのです。イエス様の十字架の恵みに罪赦され、神様の平和を生きる人になり、真の神様の命に生きる喜びを知ったのです。「すべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」(ロマ8:37)確かに福音に生きる時にこそ、福音の素晴らしさを経験し、その喜びに生きる輝きに満たされるのです。
 第二に、福音に生きることは、イエス様の約束された喜びに満たされることです。喜びは自然成長する命です。イエス様の恵み、真実の福音の喜びは、爆発力があるのです。人は本来、どのような喜びも、それを一人でも多くの人に伝えたいという思いに駆られるものです。神様に愛されている喜びを自覚出来ること、福音を語らずにはいられなくなる習性があるのです。使徒パウロは、「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」(Tコリント9:16)福音を伝えないなら不幸であると言っているのです。言いかえれば、福音を人々に伝えることこそ、「わたしの幸福である」ということです。クリスチャンの生活は、証しの生活です。直接み言葉を伝える。生活の中で聖霊の実によってクリスチャンの恵みを伝える。人々と共に生きることの中で、イエス様の愛を行動で証しする。クリスチャンの生活、存在がイエス様にある神様の恵みの証しであるのです。
第三に、「信じて洗礼を受ける人は救われる。そして、しるしが伴う、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、蛇にかまれても、毒を飲んでも害を受けず、病人に手を置けば癒される。」(マルコ6:18)真の神様を信じる時にこのような事象を持って神様を体験させて下さる約束があるのです。しかし、それは毒を飲み、蛇にわざわざかませることではなく、あくまで象徴的に異例な奇跡を神様は必要であれば行って下さるという事です。奇跡はメッセージであるのです。その一つは、神様が活きておられる証しです。その二、神様は愛であるということのメッセージです。信仰は体験的理解でなければなりません。神は生きておられるということは、聖書の一貫したメッセージです。理解の信仰は、わからなくなる時、消えます。信じること、信頼すること、従うこと、実践することの中で、全人格的、全存在的に内なる命が、活ける神様の命、霊によって生かされる信仰が、生きた信仰であるのです。

 

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