2013年 9月29日 礼拝メッセージ 

「人を生かす喜びの旅路」
ルカによる福音書15章11-32節

「月日(つきひ)は百代(はくだい)の過(か)客(かく)にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口をとらへて老いをむかふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。」これは松尾芭蕉の「奥の細道」の冒頭の文章です。旅を住み処とする人生哲学をあらわしているといえます。人生とは旅であり、自然に慰められながら漂泊のうちに人生を終わるということで、芭蕉の辞世の句である「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」は、人生の旅の儚さを表しています。又、戦国の世を平定した豊臣秀吉は、「露と落ち露と消えにし我が身かな浪花の事は夢のまた夢」と辞世の歌を詠みました。天下の将軍として権力をふるった徳川家康の、「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。」など、栄華と権力を手に入れ、全てを手に納めたという中にも、計り知れない空しさを言い表しています。旧約聖書の「コヘレトの言葉」(伝道の書)で、イスラエルの国の王として、栄華を極めたソロモンは、「伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。」(1:2−9口語)「金銭を好む者は金銭をもって満足しない。富を好む者は富を得て満足しない。これもまた空である。」(5:10口語)と告白しています。正に、人が生きるという現実の姿を示しているのです。ソロモンは、BC(紀元前)10世紀頃の王です。時代を越えて人の生きる姿を浮き彫りにしているのです。
 そのように現実の人生は空しいもので終わるのでしょうか。使徒パウロは、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ロマ8:28)と言っています。神様の御心に目覚め、その御心を知った時に人生は変わり、生活は全く変わるというのです。言換えれば「万事が益」と変わるのです。どのような体験であっても、その出来事を通してそれを「益」とされる、それが試練や困難であっても決してマイナスに終わるのでなく、それは新しい勝利の経験として、更により強い力として結実されるのです。人は、儚く、もろいものです。しかし、救い主イエスに出会う時、人生は根本から変えられるのです。
 ルカによる福音書15章には、イエス様が話された「放蕩息子の回復」の話しがあります。田園の裕福な家に二人の息子がいました。兄は根っから家を思い、お父さんと力を合わせて家業を助けたのでした。しかし、弟は、家の後を継ぐのでなく、家から離れて独立した道を行くことになっていたようです。弟は、おそらく村の若者たちと交わっているうちに町の情報を聞き、どこかの息子が面白い商売で稼いで、とても良い生活をしている。どこかの友達は結構上手に手広く仕事を成功させているなどとのうわさを聞いて、夢を膨らませるのでした。弟息子は、そうだ、自分も何時までも子供ではない、自分を試してやってみよう、自分は結構財産のある家の息子だから、財産の分与もある、お父さんに頼んでみようと思うようになるのです。物語では、お父さんに息子が頼んだ時、すぐ息子の話を聞いたようにありますが、実際は何の苦労も知らない息子に色々と考えるように忠告したというのが自然であるようです。行くならもう少し考えて、見通しを立てるように云ったと考えることができます。しかし、弟は早く家を出て、父や、何かとうるさい兄などから解放されて思うように自由に自分を試したいと思ったと考えられます。父は弟息子の願いを受け入れて、息子たちに財産を分け与えたのでした。
 弟息子は「遠い国へ旅立った」のでした。出来るだけ家から遠いところへ行けば、お父さんやうるさい兄から干渉されないと思ったに違いないのです。自分で自由に物事を決めて、自由に儲けて、自由にお金も使えると思ったに違いないのです。町に出て、今まで知らなかった歓楽、きらびやかな遊びにひかれるようになったのです。持っているお金も充分にあるので、自分が楽しむばかりでなく、いつしか遊び友達もでき、気前よくお金を使っていたのです。そして、何時の間にかお金を使い果たし、気が付いたら無一文になってしまっていたのです。なにかも無くなった時、運悪く大変な飢饉になったのです。古代の社会で作物の飢饉は、社会の崩壊を招くのです。彼は、ようやく豚飼いの仕事にありつくことが出来ました。イスラエルでは豚は汚れた動物として忌み嫌われていたのです。そのことを思うと、おそらく「遠い国」とは他国であったのでしょう。豚飼いをしながらお腹が減って仕方がなく、食べるものがないので豚の餌を食べたいと思ったほどでしたが、イスラエルの民の誇りを守ったのでした。彼はとうとう、お父さんを思い出し、今にも死にそうな自分の惨めさを思い、お父さんの所にはどんな飢饉であっても今まで食物がなくなることはなかった。お父さんの愛情と忠告を思い返して、そうだ自分はお父さんに対して罪を犯したのだ。天の神様にも私は背いていたのだ。私はいまさらお父さんの所に帰る事はできないが、悔い改めて、雇い人の一人として受け入れてもらおうと決心するのです。
 弟息子は、思い立って家に帰るのですが、父親は、遠くから帰って来る息子を見つけて走り寄ったとあります。息子が帰ってくることを知っていたわけでないので、毎日毎日、高台に立って、息子が今日か、明日か、帰ってくるだろう事を願いつつ、待っていたに違いないのです。遠くに弟息子の姿を見ると走りよって抱きかかえ、そして接吻したのです。接吻は愛情の現れです。汚れた服を脱がせ、新しい服を着せ、履物をはかせて、指輪をしてやるのです。指輪は家を継ぐ象徴です。そして歓迎の食卓を用意するのでした。
 これを知った兄息子は、言いつけに背いた弟にどうしてそこまでするのかと怒るのでした。お父さんに一回として背いたことのない私が、友達と一緒に食事をする時に仔山羊一匹すらくれなかったではないかと憤るのでした。然し、お父さんは「『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」(ルカ15:31−32)と言ったのでした。
 この話は、弟息子が「遠い国」へ旅立つことから始まります。人の人生も一人での旅立ちに始まりがあります。人が、真実に幸せに人生を生きる事を教えているのです。
第一に、弟息子こそ全ての人の姿であるのです。人は、両親から色々と注意されたりすると、「私は、頼んで生んでもらったのではない」などと言うものです。確かにそうです。しかし、この世に生を受けるということは、神秘であるのです。誰にも理解できなくても「命は尊い」のです。それは神様の御心の内に一人の人として創造された事に意味があると言えます。そして確かに人は、この弟息子のようにお父さんから離れて自由に、思うように、お父さんからもらった財産を使い、気ままに過ごしたいのです。父は息子を思い、息子を愛するがゆえに人としての生き方を教えた。しかし、弟息子は父親の云いつけに背いて、反抗して自我を通して父の元を去って行ったのです。やがて弟息子は放蕩に身を崩して、途方に暮れて、罪を自覚するのです。神様から離れた人間の罪業を教えているのです。弟息子は苦しみの中で自分の罪を自覚するのです。それが救いのチャンスになったのでした。父の愛が分かったのです。私たちは、自分は自分の力で生きているように錯覚するのです。世界を創造し、全ての存在と命の根源である神様を忘れて生きることの悲劇を示しているのです。世界の創造の意図は「神様の愛」であるのです。神様に愛されている自分を自覚できる時に、人は、人として生きるのです。神様に愛されている私の発見こそが、信仰であるのです。
 第二に、お父さんが弟息子を毎日、高台に立って待っていたように、神様は神様を忘れ、信じないで自分勝手に空しく遠い国を旅する私たちを待っていて下さるのです。そして、帰ってくる私たちを無言で抱きかかえ、全ての過去の汚れを取り去り、新しい救いの約束の指輪を備えて下さるのです。神の愛は無限の赦しの愛です。犠牲を払って回復を祝って下さるのです。その神様の愛は、神が人となられたイエス・キリストにおいて表されているのです。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネT4:9,10)
 第三に、兄息子は弟に対するお父さんの愛が理解できませんでした。実は、15章の2節を見るとイエス様はこの話をパリサイ派の人達や、律法学者の人達に話されたのでした。そして、この兄息子こそは、そのパリサイ人を指しているのです。パリサイとは「分離する」という言葉から来ているのですが、この世俗の中から分離する、即ち聖別することを意味します。律法を厳格に解釈し、厳格に守る人が神様に従う人であって、神の国に永遠に生きる、救われると主張するのでした。しかし、イエス様は律法を守っても、心に憎しみや、欲望を持っている限り、盗み、傷つけ、殺すもとになるのであって、人は罪から解放されるには「悔い改め」なければならないと示されたのです。そして、神様の赦しを受けるのです。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(Uコリント5:21)神様の愛こそは人を変え、人を生かすのです。
 「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」(ルカ15:22)
イエス様に表された「神様の愛」こそが真実に人の人生を支え、生かし、神の御国を体現されるのです。人生の旅において、いつも主イエス様がおいでになるところに「全てのことがあい働きて益となる」(ロマ8;28)ものとされるのです。

「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(Tヨハネ5:4,5)


 

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