2013年 10月6日 礼拝メッセージ 

「幼子のような信仰の恵み」
マタイによる福音書18章1-14節

 今年は特に暑い夏でした。教会の植木に水を蒔く日が続きました。いつもは縁側に朝顔やゴーヤなどを植えるのですが、今年は植えませんでした。しかし、不思議なことに庭のあちこちに朝顔が生えてきたのですが、手入れをしないまま自然に伸び放題にして、毎日、水をやっていると小さな青い朝顔が咲き始めました。誰も種を蒔いていないのに自然に育って自然に咲き始めたのです。それは美しい情景でした。不思議な小さな命が育ち、生い茂る姿にいとおしさを感じたのです。命の神秘、命の力強さ、命の美しさと尊さを感ぜずにはいられませんでした。はじめは雑草のように生えるのを見て、取り除こうかとも思っているうちに育っていったのでした。
 日常の中で、大切なものに気付かないで無意識に捨ててしまったり、無視してしまうことがあります。大切なことを思い違いをしたりすることがあります。イエス様の弟子たちが、イエス様に「誰が天の国で一番偉いのでしょうか」と尋ねたのです。イエス様は、一人の子供を呼び寄せて、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」と言われたのです。そして、「自分を低くして、この子供にようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」と言われたのです。この聖書の言葉は、多くの人に感動を与える有名な言葉として知られています。イエス様を信じる信仰の最も大切な基本を教え、教会を形成する基礎と、最も大切な姿勢を教えておられるのです。
 その第一は、弟子たちは「天国でいちばん偉い人」とは誰かを問うているのですが、それは天国での報いはどのような人が一番に受けるのですかということを意味していると言えます。天国の報いは、功績のあった人、「偉い人」が受けるということを考えているのです。しかし、イエス様は「はっきり」と「きっぱり」と、「子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない。」と言われるのです。天国で報いを受ける前に、天国に入れるかどうかが問われているのです。質問した弟子たちは、「天国」の実体、意味が解っていないことになります。子供のようになるということは、様々な環境の中で育まれてきた大人のもっている複雑な罪深い、汚れた性質ではなく、自然で無垢な幼い子供の性質を考えさせていると言えます。子供は本来、素直に信じる、受け入れる性質があります。そのことによって、世界が広がり、知識が集積されていくのです。ここで言っているのは、「大人」が「子供」のようになるということであるのです。大人の持っている様々な考えや、欲情や欲望の過ちに陥ってしまった日々を振り返ると、「疑い深く」「理屈っぽく」「自己主張・自己防衛」で身を守ろうとする自分がいるものです。子供の様な「素直さ」、言換えれば神様の恵みを素直に「受け入れる」信仰の心を持つということが教えられているのです。人は本来、自分で生きている。自分の努力で、自分の勉強で、自分の工夫で人生を切り開き、自分の力で生きていると思いがちであるのです。しかし、生まれてこの方、生かされている自分、支えられている自分、育てられている自分を真実に認識できるのは、真の神であるイエス様に出会ってこの方が愛なる神であることを知り、その恵みに目覚めるからです。天国は、死後のことではなく、積み重ねてきた罪をイエス様が贖って下さったことにより、神様との交わりが回復され、神様と共に生きる日々となった、正しく今が、天国であるのです。時が過ぎ、全てのものが変わっても、変わることなく真実に神が共にいまして、神の命、神の言葉に生かされるところに神の国、天国があるのです。永遠に変わらない国、そこに永遠の命があるのです。
 第二に、天国で一番偉いということに対してイエス様は、子供のように「自分を低くして」と言われます。「偉い」に対して「低く」なれと言われるのです。イエス様は、天国では「偉い」はなく「低い」があるだけであると言われます。それは「謙遜」であるのです。自分に功績があり、誇るべき実績があるというおごりは、人を自然に傲慢にするのです。傲慢は神様を認めない、人を見下し、人を貶めることになるものです。神様の偉大さを知ることこそ、信仰の大きな恵みです。その信仰は謙遜となるのです。そして、イエス様が神様の御心に従って十字架の苦しみを歩み、命をかけて罪悪と滅びからの救いを成し遂げて下さった恵みを、「神の愛」を経験する時、そこに神様の愛が徹底した「謙遜」として示され、教えられるのです。その愛こそは、現実の生活を築き、神様を愛する人々、教会を形成する命であるのです。
 第三に、6節からのメッセージは、真実の教会の姿の基礎が教えられていると言えます。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」(:6) ここで「小さな者」とは、「幼い子供」を意味している。前節では子供のようになる人が天国で一番偉いと言われた。大人であるが子供のように素直で、単純な信仰こそが、「偉い」のであると言っています。この「偉い」と言う語は、聖書の原意では「大きい」(μείζωνメイゾーン)という意味であるのです。確かに功績や功徳の大きさに対比すると、この「小さな」者は、偉いというよりも、その存在を軽蔑され、無視されるようなことを言っているのです。人には、地位や名誉、実績や、財産、財力、知識、体力などが人と人を隔てることがあるものです。「小さな者」即ち、財力に恵まれず、人に誇れるようなものもない時には、心理的にも、気分的にも嫌な思いをすることが往々にしてあると思います。そのような時に、孤独を感じたり、批判や、議論などといった愚かなことが起こることは避けられないと言われています。しかし、「きっぱり」と「つまずかせるな、つまずかせる者は不幸である。」、もし、人を見下す目があるなら、人をつまずかせる手や足があるなら切り捨てなさいと命じられるのです。教会の交わりには「小さい者」をいたわり、心を配り、支える愛の心こそが大切といえるのです。「大きい者」とは、イエス様の愛を生きる、人のために「小さな者」のために身を犠牲にして尽くす者です。ここに天国が現実にある。神の愛のあるところに神の国があるのです。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(Ⅰヨハネ4:12)
 そして、改めて10節から「九十九匹の羊」を例に、失われた一匹の羊の尊さを神様はここで再度、念を押して指摘されるのです。「これらの小さな者を一人でも軽んじてはならない」と言われるのです。真実に罪を悔い改め、神様の愛を知り、受け入れ、イエス様のみ言葉に生かされ、神の国に生きる人となる時、全ての人は聖霊に満たされ、神の子供として神様の恵みに生きる、神の御心を語り伝える神の使いとして喜びと希望に生きるのです。感謝。

「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」(ロマ書12:9-18)

 

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