2013年 10月13日 礼拝メッセージ 

「神から賜る命の力」
エフェソの信徒への手紙3章14―21節

 三田市の永田光司さんという人が、91歳の今なお市民マラソンへの出場を続けているというニュースが最近あった。会社員として生活し、運動から遠ざかっていたが、「退職後に一人でもやれる趣味を」と思案していた59歳の時、友人から贈られたランニングシューズが気に入り、走り始めた。昨年までに走った距離は4万1500キロ。「今年も毎月100キロを走り、95歳には4万5千キロを超えたい」。死ぬまで走り続けたいと言っているそうです。力は魅力です。同じように与えられている人の体ですが、鍛錬すると常識では考えられない体力を保持できるという事が解ります。力には様々なものがあります。体力、知力、視力、聴力、思考力、技能力、活力など、人が生きるための可能性が与えられています。与えられている可能性を引き出すのが「教育」ということになります。教育は英語でEducationと言い、educe即ち、「引き出す」という言葉から来ています。
カントは、「教育学」という本の中で「人間は教育されなければならない唯一の被造物である」、「人間は、教育によって初めて人間になることが出来る」と言っています。どのような動物でも、本来的に生きるための本能という能力が与えられています。カントは、孵化したての子ツバメが、糞を巣の外へ落とす本性を指摘しています。しかし人は、与えられている可能性、創造力を引出す、即ち、訓練し、養育することにより、新しい創造を積み重ねて成長するのです。それが芸術や、文化を形成し、生活を豊かにし、発展させます。しかし、人の能力の可能性を引き出し、応用し、利用してもその動機が罪深い欲望と自己主張であるなら、そこには争いと、対立が憎しみを生み出します。破壊と殺戮の道具を生み出し、人を威圧し、支配し、略奪する世界になっているのが現実のこの世であるのです。神様が世界を創造をされた時、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創1:31)と記されています。そして創世記2章の冒頭に、「天地万物は完成された。」(2:1)とあります。「極めて」、それは究極を意味しています。「良かった」は完全を意味しているのです。創造は、究極的に完全であった。それは神様の満足であるのです。調和と一致の完成を意味します。そして神様は、ご自分に似せて人を創造されたのです。(創1:27)そして「人に・・・全てを支配させよう。」(1:26)と言われるのです。しかし、3章において人類の始祖であるアダムとエバは神様の御心から離れて、神様を避けるという世界が展開するのです。人間が神様を忘れ、神様を否定するという、神の御心から離れる事は、自己の欲望に生きることになります。そこに人間の罪の源があるのです。神様を否定する事は罪の根源であるのです。それは神様の満足、「良かった」ということを否む事になるのです。神様の御心、目的を間違えることであるのです。
「的を外れる」ことを聖書の言葉はハマルテァー(άμαρτία)「罪」といいます。神様の満足、良しとされること、聖、清さ、正義が失われるのです。神様を見失うことは、神様との交わりを失うことになります。そこに残るのは、自我の欲求に基づく自己主張であるのです。言換えれば、神様との交わりを見失うことは、調和と一致、平安と平和を造る要である神の愛を見失うことなのです。そこに限りない闘争と破壊、不信と対立、猜疑と抗争、憎しみと恨みの連鎖が不安と怖れとして人々を苦しめることになります。これが現実の世界の姿であるのです。
 使徒パウロは祈ります。「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。」(エフェソ3:14,15)「天と地の全ての家族のために私は使命を与えられているのです。」私はすべての人のために願い、祈るのですと言います。そして最後に「キリストを信じる人々の教会によって、キリストの救いによって父なる神様の栄光が回復するように」と祈るのです。言いかえれば「栄光」、神様の御心が回復し、神様が「良し」と満足された調和と一致、真実の平和が回復するようにと祈るのです。
 第一に、「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて」(3:16)豊かな御心に従い、「霊により」「その力をもって」、クリスチャンの内なる人を強めて下さいというのです。神様の御心を見失った「神様を経験する“霊性”」を回復して下さいというのです。人は、生きるために内なる能力を与えられています。その能力を神様の御心で生かす「霊性」を失っているのです。それが「罪悪の根源」であるのです。「霊性」を回復することこそ真実の人間性を取り戻すことであり、この「霊性」に満たされることこそが神様の御国を回復する力となるのです。「その力こそ」聖霊の力であるのです。人の霊性が目覚める時、神様である聖霊は人の内にあって御心を回復して下さる力として生活の中に証しして下さるのです。
第二に、聖霊の回復と充満の鍵は「信仰」であるのです。イエス様を信じる信仰、即ち、ピスティス(πίστις)信頼、確信することによって「交わり」が深く、強くなるのです。「心の内にキリスト」を受け入れる、共に住む、共に生きることになるのです。
言換えれば、「キリストの愛に根差し、キリストの愛にしっかり立つ者」として下さいと祈っているのです。「あなた方の心の内にキリストを住まわせ」(:17)心にキリストを住まわせるとは、キリストの愛に生きることにほかなりません。イエス様が、罪の為に人が失ってしまった神様との交わりを回復するために「罪」の犠牲になって十字架で命を捨てられ、神様の愛を明確にして下さったことを確信する事であり、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人知の知識をはるかに超えるこの愛を知るように」(:18,19)という、このみことばの勧めのように神の愛を理解し、知ることは正に体験する、全人格を通して体験、経験することにあるのです。
第三に、キリストを信じる信仰による「霊性」の回復は、神様がキリストによって現わして下さった「愛」に生きるものとされる事です。愛は、情緒的な感情であるだけでなく、愛の中心的な能力は霊性の力です。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」(Ⅰヨハネ4:18)正に勇気です。愛する人のために犠牲になる勇気こそは愛であるのです。キリストの愛に生きることこそ、力であるのです。又、愛は「思いやり」です。思いやることは、思慮深く相手を理解することによって出来ることです。愛はものごとを冷静に判断する、理解して真実の愛として証しされるのです。
私が小学校五年頃、お正月に、獅子舞が一軒づつ軒先を回って舞いをしてはお金をもらっているのを見て、「乞食のようだ」と小さい声で云ったのですが、獅子舞いは聞きつけてかぶりもをとって猛然と小さな私に怒ってきました。それを見ていた他の子が家に駆けつけ母親を呼んできました。穏やかな京女の母親は脱兎のごとく走って来て、殴りかかろうとする獅子舞いの間に入ってひたすらに詫びるのでした。その姿を見って母親がどれほど私を思ってくれていたか分ったのです。難を逃れた私は、母親の愛に打たれたのでした。キリストの愛を知った時、この小さい時の母の姿に重ねてキリストの愛の犠牲を知ったのでした。「人の知識をはるかに超える」真実の愛の深さをキリストに出会って初めて知ったのです。愛は理屈でなく、体験であるのです。それは喜びであり、感謝であるのです。この喜びの感情こそ人を生かし、人を行動させる「力」であるのです。それが喜びの感情となり、理解と知識の裏付けとなるのです。それは人の意志として、人格の品性として備わっていくのです。
一人一人のキリストへの信仰が「人を真実に結ぶ帯、絆となるのです」そこに生けるキリストの教え、交わりがあるのです。キリストの愛の命、力、知恵、それは御国を証しする命であり「力」であるのです。この力、この命こそキリストを信じる人に約束されている「聖霊」の力であるのです。使徒パウロは云います「聖霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」(エフェソ5:18,19)と。聖霊は祈りによって交わり、示し、導かれるのです。祈りを通して聖霊は導き、キリストとの交わりを深めて下さるのです。(エフェソ6:18)
 キリストにある愛と力、その命は祈りを通して聖霊が現実的に信仰の実を実らせて下さるのです。一人一人の信仰によるキリストの愛が、深められ、豊かに実って教会は成長し、多くの人々にキリストの愛の福音を更に、大胆に伝えるものとなるのです。
主を崇め、主を賛美し、主を伝えよう!!

「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3:12-15)

 

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