2013年 10月20日 礼拝メッセージ 

「祈りが生む力と祝福」
ルカによる福音書18章1-8節

 クリスチャンの特徴は祈る人であるということです。神様を信じることは、祈ることであるのです。神様を信じることは、神様を受け入れることであり、認めることです。それは自分の意志で認めてあげるというようなことではなく、神の愛と恵みによって神を知ることです。そして、神の恵みと愛に守られ、育てられている自分の発見であるのです。生かされている自分、愛されている自分、守られている自分、導かれている自分の発見であるのです。ですからクリスチャンは、「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝出来る」(Ⅰテサロニケ5:16,17,18)ようになるのです。クリスチャンの特徴はいつも喜び、全てのことに感謝し、絶えず祈る人であることです。喜びは賛美であり、感謝は捧げものです。喜びも感謝も祈りです。イエス様に救われ、神様の真実の愛と恵みを体験する時、そこには罪赦され、神の子とされた喜びと感謝があります。賛美と献身のあるところに礼拝があるのです。神様の御名を讃える喜びが礼拝となります。また、礼拝は神様との交わりです。喜びと感謝の賛美が捧げられる、それが祈りであるのです。祈りの中で神様に感謝し、神様の愛と恵みを賛美するのです。
 信仰のあるところには祈りがあります。祈りのあるところに信仰があります。信仰のない祈りなく、祈りのない信仰はないのです。神様に真実に出会い、罪赦されて交わりを回復できるのはイエス様の十字架の恵みによるからです。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(Ⅱコリント5:17.18)私たちは神様の恵み、恩寵によって信じ、救われ、祈ることのできる人にされたのです。祈りは恩寵であるのです。この恩寵は喜びの命です。
 キリストを信じることは、神様の恵みを体験することであり、恩寵であるのです。恩寵によって祈りがなされるなら、祈らない信仰はあり得ません。信仰のある生活には、祈りの生活があるのです。
 フォーサイスという著明な神学者は、「祈りの精神」という本の中で「最悪の罪は祈らないことである」と言っています。罪とは神様との交わりの断絶を意味します。祈りは神様との真の交わりの生活であるのです。破壊と混乱、憎しみと対立、騒乱と絶望は神様を信じないことからくる交わりの喪失であり、それは「罪の根源」であるのです。イエス様は「絶えず祈らなければならない」(ルカ18:1)ことを教えられました。
 第一に、クリスチャンの信仰の成長は「祈る」ことではかられます。祈りは信仰の命である霊性を育成する源泉であるのです。人を生かすにはパンが必要です。信仰よる魂の霊的な命は「祈り」であるのです。祈りが霊性を育成し、祈りが信仰生活の向上の命と成るのです。だからイエス様は「絶えず祈る」ことを教えられたのです。使徒パウロも「絶えず祈る」ことを教えています。(Ⅰテサロニケ5:17)
 第二に、イエス様は「気を落とさず」に祈ることを教えられます。聖書の「気を落とす」という言葉は、エグカケオー(έγκακέω)という言葉で「落胆」「倦み疲れる」「失望する」などの意味があります。口語訳では「失望せず」とされています。希望を失わないで祈る。言換えれば、「信仰を持って祈る」ということに尽きるのです。正に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブル11:1)。祈りは信仰によって生きた祈りとなるのです。信仰のない祈りは死んだ祈りであると言えます。「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」(ヤコブ5:16)「正しい祈り」とは、「信仰による祈り」を意味します。「落胆せず」に祈ることは、見ていない信仰の事実が、現実になるまで祈ることであるのです。
 現在の会堂を建設する時、古い会堂の床が落ちたことでビジョンが与えられ、新しい会堂の建設を願ったのでした。同じ建てるなら大きなビジョンを持とうということになり、資金があるわけでもなく、資金を集める可能性の背景も無しにビジョンの実現のために祈り始めました。設計図を壁に貼り、祈りました。何とか会堂が建つめどがついてきました。しかし、備品にも相当な予算がいるのです。そして祈りました。一年祈り、二年目に、建設のめどがたち、建てながら、備品・装備のために熱い祈りが積まれました。そして、会堂完成間際には備品が整えられたのです。大きな試練でした。しかし、大きな試練には大きな祝福が待っているのです。諦めずに祈る。必ず、道が開かれると信じる信仰が、祈りを通して実現するのです。
 第三に、祈るクリスチャンは成長します。祈らない時には霊的な成長はないのです。「わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(エフェソ4:13)「信仰と知識」によって成熟した、キリストの(人格と品性)満ち溢れた豊かさに成長するのです。正に、「信仰」こそ「祈り」であり、「知識」こそ「みことば」、聖書のキリストの言葉によって成長するのです。毎日、パンで体が養われるように、信仰は祈りとみ言葉によって深められ、霊性が豊かに成長するのです。キリストの「愛」の豊かさ深さが私たちの魂を育て、成長させ、成熟させるのです。祈る教会は成長します。祈る家庭には祝福の恵みが稔るのです。人には神様の愛が品性として実を結ぶのです。「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ2:17)この愛こそ、何よりも大切なものであり、愛がなければ全てが空しく成るのです。「愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。」(Ⅰコリント13:3-8)キリストを信じる信仰こそは、祈りに生きる恵みの道であり、神様の愛を結び、成長する祝福である。 理不尽な裁判官に訴訟する貧しい“やもめ”であるが、度重なる熱意、諦めない訴えにそれを聴くであろうとイエスは云われ、「諦めないで」「失望しないで」「熱意を持って」願う“やもめ”に祈りの姿を示されるのです。そして「選ばれている人たちのために裁きを行わずに、ほっておかれことはない」(ルカ18:7)と言われるのです。「選ばれている」人たちこそ、一人一人のクリスチャンであり、神様の招きを受け入れた神の子たちであるのです。神様は、祈る神の子たちに答えられないことがあり得ないのです。
祈るクリスチャンでありましょう。祈り続ける教会でありましょう。そこに神様の約束の命と力と祝福の実が約束されているのです。

 

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