2013年 10月27日 礼拝メッセージ 

「成熟する人生の喜び」
ヨハネによる福音書15章1-8節

 人が幸せに生きていることの証しは、生きていることを喜ぶことにあります。喜びのない生活は味気のない食べ物と一緒です。ネヘミヤ記には、「悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(8:10)という御言葉があります。どのような試練の中でも、主を祝うこと、主を礼拝し、主に守られ、主に支えられているという喜びを感謝することが、「力」の「源」であるといっているのです。テサロニケ第一の手紙5章16節には、「いつも喜んでいなさい。」という御言葉があります。そしてこの御言葉は「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」と続いています。「喜ぶ」ことを神が「望んで」おられるのです。いつも繰り返し言うことですが、「いつも喜びなさい」ということは、「喜べない時」にも「喜ぶ」ことであるのです。何故なら「喜ぶことは」命、力の源泉であるからです。神様が「どんな時」にも「喜ぶ」ことを求められることは正に不可解です。誰でも「喜べない時」には「喜ぶ」ことなど出来ないことです。出来ないことが出来るようになることには無理があると言えます。しかし、ルカによる福音書1章の37節では、「神にできないことは何一つない。」言われているのです。人には「喜べない時」に喜ぶことが出来ないことは分かっていても、「いつも」喜なければならないとは、何を意味するのでしょうか。御言葉は繰り返し「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(マルコ10:27)といっているのです。神様の「いつも喜べ」という命令は、「何時も喜べるようにしてあげる」という約束なのです。「神様の約束」が、聖書を読む鍵となるのです。新約聖書、旧約聖書というように、聖書は「神様の約束」の言葉であるのです。どんな時にも「喜べる」、「喜びがある生活」こそが、イエス様を信じる信仰の約束であり、希望となるのです。
 ヨハネによる福音書15章には、イエス様を信じる信仰が記されており、その信仰の約束は「喜び」であるのです。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」(:11)私の喜びが、あなた方の内にあり、あなた方の内に喜びが満たされると約束されているのです。その喜びは何に根差しているのでしょうか。15章の1節から11節の間には「実を結ぶ」という言葉が7回も繰り返し記されています。「実を結ぶ」という言葉は、フエロー(φέρω)という言葉で、「もたらす」「与える」「忍ぶ」「耐える」という意味があって、「(実を)結ぶ」という意味に用いられていています。言換えれば「忍耐する」辛抱し、待ち望み、実を結ぶということを意味しているのです。
そこでイエス様は譬(たとえ)を語られます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(:5)と言われます。豊かにぶどうの実を結ぶためには、まず枝がしっかりと木に繋がっていなければなりません。「わたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。」(:4)と言われています。そして「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(:5)あなたがたは、わたし《イエス・キリスト》を離れては何もすることが出来ないと断言されます。実を結ぶための決定的な条件は、イエス様に「つながる」ことであるのです。この「つながる」は、メノー(μένω)という言葉で、「住む」「留まる」(indwell《英》内在する、宿る)という意味なのです。
 第一に、ここで約束されている「喜び」は、イエス様とわたしたちが「つながる」ことに鍵があるのです。豊かな実を結ぶ「喜び」の鍵は決定的にイエス様を信頼する、即ち信じることに始まるのです。イエス様につながっていない者には実を結ぶことが出来ないのであって、イエス様から離れていては何も出来ない、何も実を結ばないと指摘されています。(:5)実を結ばない、「喜び」のない、空しい人生を言っているのです。空しい人生の根本的な問題は、“神様を認めない。認識しない”ことにあります。神様を認識しないことは、何を目指して生きているのか分からず、ただ生きている、そして死を待つ人生であるのです。
「人間とは死に至る存在である」と、哲学者ハイデッカーが人間を説明しても、自然な成り行きを描写したに過ぎません。イエス様につながり「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父(神様)は栄光をお受けになる。」(:8)と言われています。栄光とは神様の偉大さ、素晴らしさ、尊厳を讃えることです。命と存在の根源である創造主なる父なる神を受け入れ、信じるところから生きる意義と意味が明らかになるのです。目的の意味を見失うことから、迷いと混乱が渦巻くことになります。これが「罪悪」の根源であり、こが罪性の悲劇であるのです。神を認識しない、信じないことこそ「罪」の根源であることが分かります。聖書は「神は愛なり」と教えています。神様は創造を通して「栄光」を表されたのです。それは神様が真実、即ち、「聖」なる「愛」をもって全ての存在を完成されたと言えます。その世界も人が神様を見失い、目的を見失うことによって混乱と破滅の恐怖にさらされる世界になっているのです。
 神様は、神を見失い、生きる目標を失っている人々に真実の愛、神様の「愛」を示されました。混乱と破壊の罪の世界に解決と回復を与えるために、救い主御子イエス・キリストを送り、真実の愛を啓示されたのでした。イエス様に「つながる」、信じ、留まり、生きることによって私たちの罪の赦しの道をお示しになったのです。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4:9,10)このキリストの愛と贖罪は、「わたしたちが真実に生きるようになるため」なのです。キリストに「つながる」こと、その言葉を「信じる」ことが、信仰と愛と希望となり「喜び」の実が恵みにより結実するのです。
 第二に、使徒言行録16章に、ピリピで伝道したパウロの記録があります。宣教のために投獄された使徒パウロとシラスは、苦難の中でも主を賛美し、祈っていました。夜半に突然地震が起こり、獄が崩落してしまい、てっきり囚人が逃走したと思い込んで獄吏は自害を決意するのでした。しかし、使徒パウロは、囚人は逃げていないと、自害を留まるよう大声をあげて止め、恵みの神の言葉を語り、イエス様を伝えたのです。獄吏はこのパウロの言葉に感激し、心を変えて家族と共にイエス様を信じるのです。「神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。」(使16:34)のでした。窮地に一生を得たこの人々は神様の愛と恵みを経験的に知ったのです。この世で起こり得ないことを起こし、神様を信じる人に神の愛を経験させたのでした。「喜び」がそこでは湧き上ったのです。キリストによる神様の愛の救いは命を与え、喜びの力を与えるのです。クリスチャンは神の愛をキリストによって経験し、キリストを信じ、その御言葉に従い、キリストにある神様の「喜び」の力を経験するのです。真実の信仰には命が躍動し、「喜び」が日々満ち溢れるのです。罪からの救いを明確に経験することによってキリストにある「喜び」が確信となって祝福の実を結ぶのです。
 第三に、キリストにある「喜び」の実は確信となり、自信になります。与えられた「喜び」の実を自分の喜びで止めては成熟したクリスチャンとはいえません。「喜び」の実は、新たな多くの実を生み出す命を持っているのです。この「喜び」の命は「力」でもあるのです。
先ず、「語る」命です。喜びは命であり、増殖する命であるのです。「喜び」を語る人を目指しましょう。証しすると、幼児が言葉を覚え、意志を伝えることが出来るように成長するのです。歌い踊り、語り、コミュニケーションが出来るように「つながり」の絆が広がるのです。
次の成長は「伝える」ことが出来る段階です。イエス様に救われて「喜び」に満たされ、人のために祈れる人に成長するのです。福音を語り、伝える人として成熟すること必要です。そしてクリスチャンとしての生活の中で更に神様の召命を明確にし、自分の信仰の成熟目標として「受ける信仰から、与える信仰へ」成熟するのです。イエス様の御言葉を語り、教え、さとせるイエス様の使徒として使命を分かち合える「喜びの実」を結実する成熟したクリスチャンを目指そうではありませんか。

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」
(Ⅱテモテ4:2)

 

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