2013年 11月3日 礼拝メッセージ 

「心の扉を叩く愛の訪れ」
ヨハネの黙示録3章14−22節

 日本シリーズの楽天、巨人の第五戦は両雄相対する投手戦でありました。最後に巨人が追いついて延長となり、読売の投手が崩れるという結末で終わるという両ファンにとって緊張の連続の好試合でありました。ゲームには勝ち負けが結果であるように、クリスチャンの信仰生活も戦いに譬えられています。「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」(Tコリント9:24−27)このように古代の競技の情景を例にとって教えています。自分の体を打ちたたいて服従させ、勝利者を目指しなさいと勧めるのです。人々に福音を宣べ伝えながら自分が失格者にならないためであると厳しい教訓が述べられています。試合に臨むプレーヤーたちは、体力の基礎訓練から打法,投法、守法などを繰り返し訓練します。激しく、厳しい訓練です。良いコーチがいても、プレーヤー自身がその厳しさを克服することが大切であるのです。
 クリスチャンは信仰の形成、成長、成熟した信仰こそ目指すべき道です。クリスチャン生活の戦いの目標は、「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。」(:25)「朽ちる冠」とはオリンピックの競技での勝利者に与えられる冠であって、時と共に過ぎ去り、過去の出来事で終わります。しかし、「朽ちない冠」は人生のゴール、神の御国に安らかに受け入れられる永遠の命を意味します。「他の人々に宣教しておきながら自分が失格者」となることがないために注意を促しているのです。そのために「節制」すること、「自分の体を打ちたたいて服従させよ」(:27)と勧めるのです。
 ここで言う「節制」とは、イエス様を「信じ抜く」ことを意味します。私たち人間は信仰生活の様々な戦いの中で疲れ、挫折し、迷い、誘惑に惑わされることがあります。使徒パウロは、わたしは「自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」(ロマ7:15)「…わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」(ロマ7:19)と告白しています。このような弱さの中にありながら、なお、「わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。」(ロマ8:37)というのです。その根拠は、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。…従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(ロマ7:25、8:1)という言葉にあります。イエス・キリストを「信じる信仰」によって結ばれるのです。イエス様が信仰の導き手であり、完成者であるのです。(ヘブル12:2)言換えれば勝利はイエス様が保証しておられるのです。ですから、イエス様は「あなたがたには世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)と宣言されているのです。競技の勝利には選手の能力を引き出す「よき監督」が必須要件であるのように、イエス様は私たちの魂の監督であるのです。羊のように迷いやすく弱い私たちであるのですが、イエス様を信じると、イエス様が考え、教え、守り、導き、指導して下さるのです。
 ヨハネによる黙示録は、聖書の最後に置かれ、1世紀末の迫害の激しい時に記されました。それは希望と信仰を持って、悪魔の力と戦い、勝利を得るように勧め、励ましており、現実の私たちの教会が様々な困難な中にあっても、勝利を確信して戦うことを勧めているといえるのです。小アジアには既に町々に教会があり、宛て先の黙示録の7つの教会の町は、その当時ローマの支配下にあり、その施政の方針として支配領土への要路が整備されていた要衝であったと考えられており、7つの教会が象徴的に選ばれたと考えられています。小アジアの西海岸のエフェソから北上し、スミルナ、ペルガモン、トロアスの要路を表街道と言い、奥地にヒエラポリス、コロサイ、ラオディキヤの町があり、東方への要路であったのです。
 ラオディキヤの教会は、特に要衝の地であって、商取引が盛んで金融取引がなされ豊かでありました。地場産業として織物産業《絨毯》が栄えていました。そしてこの町には医学校があったと言われています。他の諸教会へのように、「不道徳、偶像礼拝、背教」などへの叱責の言葉がなく、むしろ自尊心や自己満足、内面的な優柔不断で曖昧な信仰の現実への警告がなされました。今日の教会の現状に共通する深刻な問題が指摘されているのです。
 第一に、信仰の現実を直視することを求めます。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」(黙3:15−16)信仰があるのか、ないのか。イエス様を信じているのか、信じていないのか。ここで言われているのは「曖昧な信仰」への指摘です。イエス様を信じることは「火事場から救われる」ことと同じであると言った人がいます。火事の中で「死ぬ」のか、救いだされて「生きる」のかはっきりしているのです。イエス様を信じることは、神様に罪赦されて永遠の命に生きる人に変えられることにあるのです。神様の子供は「神様の言葉」で養われるのです。(マタイ4:4)イエス様を信じる信仰生活は、日々にキリストの言葉をいただき、養われることであり、「キリストの言葉」で生きることは、「キリストの言葉」を信じ従う、実践することです。「信仰」の実体と意味は、「従う」ことに尽きます。キリストを信じてその教えを実践するのでもなく、しないのでもない曖昧な現実への警告が語られているのです。「御言葉を行う人になりなさい」(ヤコブ1:22)という言葉が示しています。
 第二に、言い訳は「妥協」です。「私は金持ちだ、満ち足りている。何一つ必要なものはない。」現代的に言いかえれば、「金さえあれば何でも手に入る」ということになります。お金があって、豊かである時に人は「拝金」に陥るのです。ラオディキヤの教会の町は織物で栄えていたのでした。病気になれば医学校で診てもらえる。「目を患えば」医者に診てもらえばよい。「着る物」は豊かにあるではないか。しかし、ヨハネは、「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」(3:17)衣食住が足りて、贅沢をしていながら、現実は惨めであり、悲惨であり、見える、満ち足りていると言いながら、真実の豊かさが解っていないと指摘するのです。何を第一にするかを言っているのです。真実に与えられている富み、知恵が神様の栄光を表す時、そこに与えられている全てが生かされるのです。キリストを信じていながら、何を優先するべきかを明確に自覚する必要があります。それはイエス・キリストの十字架の愛に生かされていることが基本とならなければなりません。使徒パウロは「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」(ロマ8:5−6)霊に従うことは、キリストの御言葉に従うことであって、「肉」とは自己の欲望、欲情を意味するのです。人は、現実において「自己欲」に動機づけられて行動し、生きるものです。ヤコブ書には、「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(1:14−15)と言われています。そこで黙示録では、「火で精錬された金」を買い求めよと言います。それは錆つかない、変化しない、不変な信仰に生きることを勧めています。裸の恥をさらさないために「白い衣」を買いなさいと勧めます。正に、それこそはイエス・キリストが約束される「義の衣」、十字架の上で罪を贖い、神様の義を保障された衣であるのです。
 言い訳と妥協こそが信仰の敗北、放棄のしるしであると言えるのです。だからこそ、内に働く「悪魔」に立ち向かう人になることが大切です。「悪魔に抵抗しなさい」(Tペテロ5:9)「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。」(ヤコブ5:7−8)
 第三に、勝利者であるクリスチャン生涯を全うするために、「悔い改めよ」(黙3:19)と言われます。ルターの有名な言葉である「クリスチャンの生涯は日々悔い改める生涯である」という言葉に表されているように、「『内なる人』は日日新たにされて行く」(Uコリント4:16)ことになります。「悔い改め」は「反省」であるのです。反省は英語でセルフレフレクション(self-reflection)といって[自分を内察]することを言います。自分の内にある罪深い現実を洞察するのです。そこから改めるべきことをわきまえることができます。そこで初めて回心して生きる方向が変わるのです。忘れるな、イエス様は「あなたの心の戸口の外に立って、戸をたたいている」と言われるのです。勝利者となるために心の戸を開き、共に食卓について食事を共にするであろうと言われるのです。これはキリストとの交わり、そのみ声、その教え、その道を聴くことであるのです。「信仰は何時も聞くことから始まるのです。」(ロマ10:17)「聞く心を開く」ことが大切です。そこに勝利者の道があるのです。「勝利を得る者を、わたしは自分の座に座らせよう。」(黙3:21)言われます。クリスチャンの成功の決め手、勝利の鍵は「キリスと共にいる」これが全てです。共におられるキリストの言葉に聴き、従い、実行するところに確実な成長と勝利が約束されるのです。心を開いて常にキリストを見上げ、キリストに聴き、キリストの御言葉に従い、生きようではありませんか。キリストにあって勝利は確信され、約束され、必ずや実現されるのです。感謝。

 

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