2013年 11月17日 礼拝メッセージ 

「主を待つ望む恵みと力」
詩編27篇13−14節

人生は「期待」の連続であるといえます。生きることは「期待」することといえるからです。「期待」は生きる意欲となります。生きるために期待し、期待がかなえられて更に生きることが出来ると言えます。「期待」が生きることを支え、生きること、即ち、人生、生活を充実させ、発展させるのです。「期待」とは「待ち望む」ことなのです。それは、とりもなおさず「生きる力」です。その生きる力が、生活を支え、幸せな家族を築くことになるのです。仕事をするということは経済を支え、生活を営む保証を得ることを願い、希望することになります。
 「期待」のない生活は不幸です。「期待」することがはっきりする所に「希望」が生まれるのです。希望は願いであり、具体的な目標です。目標のない希望はなく、期待のない希望はないのです。希望は生甲斐であり、実現の努力目標であるのです。日々の生活の様々な目標を持って生きていても実現すれば又新し願いを目指さねばなりません。真実の幸せは生きる目標を持つことにあるのです。
 「芋粥」という芥川龍之介の短編があります。平安時代の京都の貴族社会を背景にした作品ですが、主人公は名も記されず、貴族社会で仕える下僕のような人で、「五位」とだけ記しています。この「五位」は、貴族の館に仕えながら赤鼻の滑稽な風貌で、人々に卑しめられ、40を過ぎた風采の上がらない男でした。周囲の者は彼を蔑み、からかい、馬鹿にするのですが、反抗する気概もなく、見下されるままであったのです。関白家の大饗宴の後では残り物を武士や、摂関家に仕える者が分けて食べるのでした。その残りの食べ物の中でも、山芋を煮込んで粥にしてある「芋粥」をみんなですするのが一番嬉しいことであったのです。みんなで食べる芋粥はいつも美味しいのですが、わずかしか食べられないのです。この「五位」は、いつか芋粥を腹いっぱい食べたいと思っていたのです。「五位」が独り言で「腹いっぱい芋粥が食べてみたい」とつぶやいたのを、傍に居合わせた敦賀の国司の婿になった藤原氏の利仁が聞き、軽蔑とも哀れともとれる思いを持ち、「そんなに芋粥が食べたければ食べさせてあげよう」というのでした。猫背で赤鼻、風采の上がらない「五位」は、まわりの嘲笑に言い返すこともできず「かたじけのうござる」と、小さい声で呟くように言うのでした。やがて四、五日たって利仁は、「五位」を東山の方で御馳走すると言って誘い、近江を越えて敦賀に連れ行き、そこで大きな釜で大量の山芋を炊き込んで作った芋粥をふるまうのです。その芋粥を見た「五位」は、見ただけで食欲をなくし、食べられないということで作品は終わりになります。「五位」は芋粥を思い切り食べたいという期待を持っていた時を懐かしく思うのです。
 「芋粥を腹いっぱい食べたい」。その「期待」がかなえられ、釜一杯の芋粥を見たとたんに食欲をなくし、食べられなくなるという結末は、人の「期待」するもの、人生の希望とは何かを問うているようです。「五位」は、死ぬほど食べたかった芋粥を腹がはちきれんばかりに食べて、三日三晩気絶する。目覚めた時には二度と芋粥を見たくなくなったという結末でも面白いと言えます。いずれにしても、人の人生には様々な願望があります。しかし、それを満たしたとしても人生には悲しいことや、苦しいこと、淋しいことや、辛いことがあり、その課題が解決することを「期待」し、希望を求めて行かなくてはなりません。聖書には、「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1:14−15)と記しています。人にとって欲望は生きる力です。しかし、欲望が自己を支配し、意志と理性が失われる時、どのような人も常識や、知識、持っている意志は無力化するのが罪深い人間です。法律は、人間がお互いに生きて行くための約束です。法律になくても嘘をつく、人を傷つける、騙す、人をおとしめる悪意は、破壊と混乱、紛争のもとになります。人としての心の罪悪の根であるのです。「欲はらんで罪を生み、罪が熟して死を生む」とあります。罪、即ち、破壊と混乱です。人が生きるために欲望が与えられています、しかし、欲望が、人を幸せにする「力」として働くことが、正に、救いにほかなりません。欲望をコントロールすることこそ真実の幸せな生涯を築くことになります。
 イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)と言われています。真理とは変わらない道理です。教えであるのです。それは人の真実な幸せの道です。正に、人が人として生きる、生かされる命の源です。人が真実に幸せに生かされるのです。人が、欲望の奴隷から、欲望というエネルギーを造り変え、生きる目標を実現する命と変えるのです。
 第一に、人が、根本的に「期待」し、待ち望む希望の基本は心を支配する力です。「主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」(イザヤ40:31口語)主に望みをおく人とは、イエス様に望みをおくことです。「新たな力」とは人の経験したことのない力、即ち、神様を信じる人に注がれる霊的な能力、人の心に神様の命が力として働く活力です。「わたしは信じます。命あるものの地で主の恵みを見ることを。主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。」(詩27:13)この言葉が示すように、「信じる」ということは、「主を待ち望む」、即ち、「期待」することです。何を期待するのでしょうか。「地で主の恵みを見る」ことを期待するのです。「恵みを見る」ことは神様の恵みを体験することであるのです。
 田原米子さんは、16歳の時にお母さんを亡くしました。何故、お母さんが死んだのか、人は何のために生きなければならないのか、尋ね続けるようになったのです。高校の先生に、人は何故生きるのかと聞いても、返ってくる答えは、「そんなことを考えるより一所懸命勉強すれば忘れるよ」であったという。乙女心に鬱積した悩みは尽きず、高校三年の時に京王線の新宿駅で投身自殺を試みて一命は取り留めたのですが、両足、左手切断、右手の先に三本の指を残すのにみとなってしまいました。苦しみと悲嘆にくれてベッドに日々を重ねていきました。そのような時、一人の宣教師と青年が尋ねて来て、キリストのみ言葉を紹介したのでした。しかし、少女は、何を言われても心を閉ざすだけでした。痛みと悲しみの中で、冷たく心を閉ざし、そっけない態度を取りながらも、いつも柔和で優しく語るお二人に、このように冷たい態度で居るのに、どうしてあのように優しく語るのだろうかという思いが募って来たのです。そして心をだんだん開くようになり、キリストの福音の愛が心に響き、イエス様の十字架の恵みを知るようになり、神様に愛されている自分を知るようになったのです。不自由な肢体ながらも神に愛されている喜びに支えられて、神様に仕える人になろうと決意したのでした。病床を訪れてくれた青年、田原昭肥牧師と結婚をし、二人の娘が与えられ、牧師夫人として神様に用いられて多くの人々に福音を伝える人となられたのです。「わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた。」(詩40:1口語)どのような試練の中でも、「神に愛されている自分」を発見する時、生きる意味を知り、生きる目標を見出すことが出来るのです。聖書は「自分の体で神の栄光を現わしなさい。」(Tコリント6:20)というのです。神様の素晴らしさを「自分の体」、即ち、生活、人生において現わしなさいというのです。人はみな、神に造られ、愛されていることによるのです。
 第二に、主を待ち望む、それは主を信じることです。信じて待ち望むところに「地で主の恵みを見る」ことが出来るようにと、詩編27篇では祈っているのです。恵みは体験できることです。信じていることが実現する実際的な方法は祈りです。祈りは神様の恵みを実現する道です。正に、待ち、望むことこそ「祈る」ことにほかなりません。祈りを通して神様は共にいてその力を働かされると言えます。イエス様の御名による祈りこそは「期待」を現実にし、「希望」は見ていないけれども確信して待つことが出来るのです。そこには信仰が裏付けられているのです。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブル11:1)イエス様は恵みによって祈る祈りを「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。」(ヨハネ14:12,13)という言葉で示されているのです。
 第三に、クリスチャン信仰にとって「期待」し、「待ち望む」ことは神の国の実現なのです。聖書は言います。「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」(Tペテロ1:13)聖書の教えの神の国は、時代的な変化の中に、イエス様の再臨によって完成されるのです。正に現実の世界は「人の欲望」の坩堝の中で苦悩しているのです。元総理の小泉純一郎氏が、「原発零廃止」を掲げて世論を動かせています。原発の恐怖は周知であるのです。恐怖と生活の平安の上に現代の世界は成り立っているのです。知性の極限的な技術開発が人類と地球の終わりを示している時代です。人生に終わりがあるように地球にも終わりがあります。聖書の告げるキリストの再臨こそ新しい世界の再創造であるのです。クリスチャンのキリストを信じる信仰とは、今、現実の中で神の国を信じ待ち望みつつ、既に、神の国が今この地にあると確信して生きることです。悲しみと矛盾、恐怖と破壊の中で、神の国の希望を持って、神様の御心、即ち、キリストが現わして下さった十字架の救い、真実の神様の愛で平和と幸せが希望と喜びとなり、命と力となるのです。
「 主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。」
(詩27:14)

 

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