2013年 11月24日 礼拝メッセージ 

「神の約束される幸せな家族」
マタイによる福音書12章46-50節

人にとって家族はなくてはならない関係です。しかし、人は家族を選んで生まれることは出来ません。幸せな人生は、幸せな家族との関係によって送ることができると言えます。今日の社会での深刻な問題は、「無縁社会」という言葉で現わされています。「無縁」とは、「社会的孤立」です。他面では、少子化社会となり、先進国では出生率が低下しています。技術社会の進化と、経済の豊かさが女性の社会進出を促し、子育てが難しくなっているのです。女性の社会的地位は向上し、経済力も強くなっています。労働条件や環境も法制化され、整備されてきています。また、父親の単身赴任で、「父なき社会」と言われてきているのです。高齢者については、介護制度が整ってきて、多くが福祉制度に頼る時代になっています。それは或る意味で、福祉の充実に伴う社会全体での助け合いという理想の一面であるのです。現実には、少子化現象により、一組の家庭が二組の両親の面倒をみることにもなります。そこに様々な問題が生まれてきます。家族は血縁関係であると共に、血縁による法律関係でもあります。そして人間としての心情的な心の関係であるのです。
三浦綾子の「この重きバトンを」という小説があります。主人公の明は、高齢の父を「じじい」と呼び、自分の出生を疑い、反抗して、奔放に生きるのです。受験に失敗して自暴自棄になり、金銭をせびり、暴力的になった息子を、父、鶴吉はどうすることもできないという設定です。とうとう父は息子を勘当しようとするのです。そして息子に、自分の生い立ちや、これまでの人生を記したノートを読ませるのです。明治、大正の北海道開拓農民の貧しい家庭に生まれ、幼少より苦労し、13歳で奉公に出されたが、まじめに働き、奉公先で見込まれ、結核で苦しんでいたその家の娘と結婚して婿になるというささやかな幸せが見えてきた。しかし、徴兵され戦地に赴く事になる。終戦になり、札幌に帰ってくると、家は離散し、妻や義父は死んでおり、絶望する。しかし、無気力になりながら、何とか生きていくのです。二度目の妻となる女性と知り合い、そこから第二の人生が始まります。52歳で一人息子の明をもうけ、経済成長の波に乗って財を築き、老後の平穏な日々を送ろうとする時に、愛する息子に「じじい」と呼ばれ、蔑まれ、嘲笑される老父鶴吉は、自分の半生を描いた手記を手渡し、これを読んで父の苦悩と、明への愛を知ってくれたら家を出て行く必要はないというのです。その文章の終わりには、戦地で出会った善意に満ちた戦友が小さな本を出して教えてくれた言葉が書かれていました。「汝ら互いに重荷を負え」「汝の十字架を取りて歩め」。この戦友は中支で戦死するのです。小説はこの言葉で終わります。
この小説は「互いに重荷を負い合う」ことを通して「人間とは何か」を問うているのです。そして家族と共に生きることの根本的な課題を問うていると言えます。親の労苦を知らず、子が踏みにじることは悲劇です。無縁社会と言われて、孤独に死を迎える人が増えています。家族があっても財産があるばかりに骨肉の争いをすることもあります。それが血縁であるのです。法律の関係であるのです。人にとって、血のつながりより、法律の繋がりより、「人を生かす愛」こそが、最も大切であることが分かります。言換えれば「愛」なくして「人は生きて行けない」のです。「重荷を負い合う」ことこそ、「愛し合って生きる」ことであるのです。家族が真実の神様の愛に結ばれていることが、人として生きることであり、幸せな家族であることなのです。
マタイによる福音書12章46−50節に、イエス様は「幸せな家族とは」ということを教えておられます。イエス様がどこに行っても多くの人々が集まり、そのお話を聞き、祈って頂こうとしていました。46節には、「イエスがなお話しておられる時」と記録されています。12章の最初にも色々なところで人々に話され、人々はイエス様の行くところに従って行ったことが記されています。15節以下では更に病気を癒やし、御自分の使命を聖書(旧約イザヤ書)から語り、悪霊につかれた盲唖の人が癒され、見えるようになり、口が利けるようになったことにより、ファリサイ派はこれは悪霊のなせる業であるといってイエス様を責め立てるのですが、主イエスは人々に理路整然と教えられるのでした。
 そのような状況で、イエスは「なお話しておられた」(マタイ12:46)のでした。そこへ母マリヤと兄弟たちが、イエス様を家に連れ戻そうとやって来て、群衆のいる家の外で待っていたのです。マルコの3章21節には、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。」とあります。マタイ伝にもイエス様の業を悪霊の業であるとする並行記事があるのです。おそらく同じ資料による記録と思われます。母マリヤや兄弟は、人々におかしい、狂っているなどと言われて取り押さえに来たと考えられます。ですから、お話の最中に入っていくことをためらい外に立っていたのです。それを見た人が、イエス様の話の最中ではあったのですが、親や兄弟たちが来ている事を取り次いだのです。
 イエス様の身内には、イエス様の活動に当惑し、人々から様々な批判を受け、「取り押さえて」嫌でも何でも家にとどめておこうという気持ちがあったのです。イエス様とは違った所に親族はいたのです。世間の批判を恐れたとも言えるのです。
 イエス様は取り次いだ人に、「わたしの母とは誰か。わたしの兄弟とは誰か。」(マタイ12:48)と言われるのです。そして弟子たちの方を指して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(:49,50)と言われるのです。姉妹、母とありますが、イエス様の弟子達と共にお世話をしている婦人たちもいたようです。ルカの福音書の8章には「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」(ルカ8:2,3)とあります。イエス様は「天の父の御心を行う」、神様の御心に生きる人は神の家族であることを教えておられるのです。「神の御心に生きる人」こそが神の家族であり、真実の幸せに生きる家族であることを教えられているのです。
 人間の歴史は差別の歴史でした。力ある者が、弱い者を支配し、財力のあるものが無財の人を支配し、人種で差別し、人権を無視する歴史であったのです。しかし、聖書は神の御心を示し「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3:27,28)。人は、全て神様に造られた神様の子供であるのです。人の元始は「神に至る」(ルカ3:37)と聖書は記録しているのです。言換えれば全人類は創造の初めにおいて神様に造られ、与えられた命であり「血」であるのです。人が神様を忘れ、神の御心から離れた時、自分の欲情と欲望に支配される世界となるのです。「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1:14、15)「神の御心に生きる」ということは、神の言葉[聖書]信じ、神の言葉に従い、神の言葉によって生活を築き、家庭を建て上げることです。
 先ず、人は、神様にあって生かされていることに目覚めることです。神様を信じることは神様に愛されていることを知ること、そして、現実に愛されていることの中で生かされてきたことに目覚めることです。正に、神様を信じないことこそが罪悪、「罪」の根源であったのです。その罪を贖い、愛を示して下さったのが御子イエス・キリストであるのです。「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Tヨハネ4:8−10)イエス様を信じる家庭こそが“真実に幸せな家庭”であることがイエス様の言葉で分かるのです。家族がどのような状態になってもイエス様を信じる限り、和解の道が備えられているのです。イエス様の十字架は神様の愛と罪の赦しの約束であるのです。
 イエス様は、母マリヤが十字架のもとに来られた時、母マリヤとそのそばにいる愛する弟子を見て、「御覧なさい。あなたの子です。」と言い、弟子には「見なさい、あなたの母です。」と言われるのでした。(ヨハネ19:26,27)イエス様の兄弟ヤコブは、迫害の中エルサレムで第一回の教会会議の座長として教会を指導し、62年頃殉教したと伝えられています。立派な信仰者としての生涯を送ったのです。
 礼拝で祈る「天にまします我らの父よ。御名を崇めさせたまえ。」という主の祈りは、家族の祈りと言われます。キリストの御心に生きる、神様の言葉に生きる、神の家族であることを現わす祈りです。聖餐にあずかる事、キリストの御体なる「パン」と、主の血を現わす「ぶどう酒」を共に受ける主にある兄弟こそは、神の家族であるのです。主の愛に生きる神様の家族の証しこそは聖餐であるのです。聖餐はキリストの臨在を現わし、インマヌエル、即ち、「神共にいます」ことを証しすることになるのです。
 日々、様々な問題が起こり、戦いがあります。どのような試練も、苦難も、悲しみ、苦しみも、主イエスが共にいて下さるという信仰のある時に勝利は約束されているのです。主イエスは言われます「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)家庭に戦いがある時は、神の家族である教会で共に祈り、共に主にある幸せの解決を求めようではありませんか。神様を信じる家族として、神様の約束されている幸せに生きる家族となりましょう。
「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」      (Tヨハネ5:4,5)


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