2013年 12月1日 礼拝メッセージ 

「復興の日を待ち望んで」
ルカによる福音書4章14-30節

 2013年は世界中が大災害に見舞われた年でありました。ヨーロッパ、南アメリカ、日本、そしてフィリピンには未曾有の強烈な台風が襲いました。東日本を襲った大地震と、大津波の災害から2年半が過ぎようとしています。今だに多くの町々は復興の最中であるのです。多くの国々から応援が寄せられました。又、この度のフィリピン大災害にも多くの国々が助けを送っています。現実の生活には、様々な情勢の変化の中で試練や挫折が起こります。時代の流れの中で、国と国とが戦争になり、国土が破壊され社会が壊滅することもあります。平穏な日々が悲惨な現実に一瞬にして変わるのが世界の流れです。そのような現実の中にあっても、真実に人を大切にし、人の生きるべき道を示しているのが「神の言葉」、聖書です。詩編119篇の105節には「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」とあります。如何なる暗闇の中でも「光」のあるところでは見通しが効くのです。現実が漆黒の暗黒の中でも、「灯」が輝く時、その光が照らす道筋が希望となります。人の心に「希望の光」がある限り、そこには復興の道が開けて来るのです。
 人は、神様によって造られました。(創1:27)聖書が、「神様が愛である」と、その中心的な御性質を現わしているように、人も「愛に生きる」ように造られているのです。人が「愛」を見失ってしまうと、人の生活は暗黒であり、破壊と抗争の悲劇があるのです。人は災害の中で人を助けあう心を持つことが自然です。言換えれば災害の中で人は、人としての「愛し合う」人間性の最も大切な「神様の心」即ち「愛し合う心」を回復します。しかし、苦しみや、災害が回復すると、無自覚のうちの神様の心を持って造られた自分を見失うことになるのが人間の罪深さです。
 「あなたの御言葉」即ち、「神様の言葉」は「わたしの道」、人の生きるべき道の光であるのです。イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父(神様)のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)と言われました。イエス様の道を知ることこそ、神様の御心を回復することになるのです。イエス様の道とは「聖書を知る」ことです。聖書は信じて、初めて解るのです。
 ルカによる福音書4章14節には、イエス様はガリラヤを中心に伝道を始められ、霊に満たされて神様の御国を語られた事が記されています。皆から尊敬を受けられたのでした。やがて16節では御自分の町、ナザレに行かれ、安息日に会堂に入り、話をするために聖書を朗読しようとされたので、会堂司であろう人がイザヤ書を手渡し、イエス様は、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」と61章をお読みになりました。預言者イザヤに与えられた回復の預言が、正に、イエス様におい今実現したことを告げ知らされたのです。旧約聖書の預言は、二重預言として語られています。イザヤの時代に起こったイスラエルの苦難の出来事、バビロンに捕囚されて国家が滅亡状態になり、人々は絶望的な破壊の中で苦しい時を過ごすのです。王を始め、国を治め、指導する人々は全て捕らわれてバビロンに捕囚の日々を過ごすのです。その苦難を見越して、神の民に約束された回復を預言しているのです。それと共にそのような現実の続く歴史の中にも、真実に神様の御心を回復し、変わらない神様の御国の実現を示す「道」真理の道、命の道が示されることを預言しているのです。
 イエス様は、正に「油注がれた者」こそ、御自分のことを指し示していると言われているのです。21節でイエス様は、「この聖書(イザヤ書の言葉)の言葉は、今日、あなた方が耳にした時、実現した。」と言われるのです。福音を告げ知らせるためにイエス様がおいでになったのです。福音とは「良きおとずれ」、良い知らせであるのです。そこでイエス様は、その使命の中心的なメッセージをこの預言の言葉で証しされました。「捕らわれている人を解放する」と言うメッセージです。それはとりもなおさず、バビロンにおいて解放は不可能という現実に苦しむイスラエルの人々を奇跡的に回復するという約束であると共に、全人類が神様の愛の御心をイエス様によって告げ知らされるという宣言です。 人々が神様を忘れ、神様から遠ざかり、自己を中心にした願望と欲情の坩堝の中で繰り返す破壊と悲劇の連鎖、即ち、罪の“捕らわれ”から解放されるのです。罪とは諸悪の根源であり、神様を否定することにあるのです。イエス様は神の御子として、神の国の道を示され、愛することとは[赦すこと]であることを示し、赦しの代償として神様は御自分の全てを差し出されたのです。神様を信じ、「人間性の回復」「人が神の愛に生きる」道をイエス様は示し、教えられたのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)永遠の命、即ち、神の国を現実に生きる道こそがイエス様の福音であり、信じる人に神様の全能の可能性に生かされる恵みを約束しているのです。「目の見えない人に視力の回復を告げる。」(:18)それは神様の生きておられることを経験する約束にほかなりません。
 「圧迫されている人を自由する。」とは、正に恩寵であるのです。人が人として現実の社会では尊ばれるためには戦いが続きました。聖書は人を人として重んじる尊さを如何なる人にも約束しています。それは愛なる神の人への配慮であるのです。いかなる人もこの神様の愛に基づく福音を否定することは出来ないのです。福音こそ神様の恵みの証であるのです。福音、それはイエス・キリストが十字架に架かり人の救いの代償となって下さった、神様の愛の赦しと配慮であるのです。
 クリスマスを待ち望む[アドベント]、待降節を迎えています。聖書を知る人になりましょう。聖書を信じる人になりましょう。聖書に生きる人になりましょう。
 イエス様がこのように御言葉を語られている時にも、幼少のころよりイエス様を知っているナザレの人々は、キリストとしてのイエス様、即ち、“油注がれた”神の御子として認めることが出来なかったのです。彼らは「あの大工の子ではないか」、というのです。彼らに旧約聖書の事象を通して、神様の恵みが特定の人にだけ表されているのではないことを語られると、人々は憤慨していきり立ち、イエス様を追い詰めて崖から突き落とそうしたのです。しかし、イエスは彼らの間を通り抜けて去られたのです。
 聞く耳を持たない人には、恵みの言葉、イエス様の愛の言葉、神様の真意は分からないのです。クリスマスの訪れが、何故、素晴らしく、めでたいのでしょうか。神が人となり、全ての人の平和と幸せのために解決の道を示して下さったからなのです。
心からイエス様の言葉、聖書を信じ、知ってその喜びを共にしようではありませんか。

「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(ロマ15:13)


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