2013年 12月8日 礼拝メッセージ 

「クリスマスの訪れ」
ルカによる福音書1章26-38節

クリスマスが来る 
今年もクリスマスが近づいてきました。ツリーが飾られ、イルミネーションを綺麗に飾る家が増えてきました。クリスマスを祝う家が多くなっています。24日ともなると、ケーキ屋さんはクリスマスケーキを求める人でにぎわうようです。大抵の家でケーキを頂き、クリスマス・ソングを歌うようです。どこの家でもクリスマスを祝います。クリスマスは楽しいのです。日本では今は、クリスマスはイエス様の御降誕を祝うことさえ抜きにして祝うようになっています。「祝う」というより「楽しむ」ようになりました。お祭りです。日本では一年中どこかでお祭りがあります。本来、お祭りは記念日であって、何かの「謂(い)われ」(出来ごとの理由)があります。京都は古い町ですから多くの祭りがあり、祇園祭は特に有名です。何十台もの鉾が町々から繰り出されるのです。しかし、何故そのような祭りが出来たのか知る人は多くありません。平安時代から続く、美的に洗練された工芸価値の高い様式の鉾が、独特な囃しで風情を醸し出します。この祭りは、平安時代に流行った厄病を追い払うまじないに始まると言われています。多くの祭りは、当時の由来を忘れて、生活の楽しみとして伝承されています。一般に宗教や信仰に関係なく、生活の中の風物詩として季節的に融合した祭りを楽しむのです。時と共に古い「祭り」は名残として楽しみ、観光となってきます。そして信仰を抜きにした「市民祭り」や「フェスティバル」といって、イベントで地域興しをするという流れです。
 クリスマスも結婚式もキリスト教が現代風でいいからという一種の流行で、式場やホテルでもチャペルを造っているのです。クリスマスを迎える今こそ、メリー・クリスマス、クリスマスおめでとう!とそのクリスマスの意味を理解し、クリスマスの出来事を知り、神様が愛を証明された恵みの出来事を心から喜びたいと思います。
 クリスマスの訪れ
 クリスマスは、イエス様がお生まれになった事実を記念する日です。ルカによる福音書1章26節から38節には、イエス様の御降誕について、母マリアに御使いが現れたことが書かれています。或る時、天使ガブリエルがマリアの元を訪れ、「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられる。」と言うのです。「おめでとう」と言うのは、「喜びなさい」(カイレ、χαίρε)という意味であって、「喜び祝う」「平安を祈る」というような挨拶の言葉でした。また、「おめでとう」は「めでる」、即ち、“自分の目で見て心からいとおしく思う”という意味でもあるのです。マリアはこの言葉を聞いて、戸惑い、考え込むのです。目の前で御使いが語られるのです。「おめでとう。恵まれた方よ」と。恵まれた方、言換えれば、神の恵みが共にある。「主があなたと共におられる」と言うのです。主があなたが行くところにお出でになるでしょう、ではなく、「今、共においでになるのです」というのです。マリアは、後にルカによる福音書1章の48節の賛歌で、「身分の低い、この主のはしためにも」と告白しているように、年は17歳ぐらいの年少であったと言われています。当時は世間的にも女性は軽視され、重んじられることはありませんでした。マリアはわきまえていたので深く恐縮していたのです。ガブリエルは、「マリア、恐れることはない。」と言って言葉を続けるのでした。「あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を生むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」と言う言葉をマリアは聴くのです。彼女は今、語られた言葉が信じられないのです。子供は男性との交わりの中で与えられます。マリアは言います「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。天使は、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と答えます。旧約聖書には、神に選ばれたイスラエルの民に、神様の御国を実現するという約束がその歴史の流れの中で語り続けられてきていたのです。ダビデの家系から世界の救い主としての王、メシヤ、救い主がお生まれになるという約束が、「マリアよ、あなたによって、今、そのことが成就したのです」と語られているのです。
人となられた神
 マリアは、いやしく何のとりえもない巷の若い女である自分にそのようなことが起こるとは理解しがたいのでした。天使は言うのです、「あなたの親類のエリサベトも年をとっているが、男の子をみごもっている。不妊の女と言われていたのに、神様の恵みによってもう6ヶ月になっている。 “神にできないことは何一つない”。」(:36-37)神様にはできないことは何一つない。このお言葉は、「人には、できないことがある」、人は、正に、創造の自然の中にある繰り返しの現象の中だけでしか物を考え、行動することが出来ない有限の中にあるのです。しかし、神様は無限であり、全能であり、全知であって不可能はないからこそ神様であるのです。
 「神にはできないことは何一つない。」(:37)という言葉の聖書のもともとの文章の表現では、≪神様の語られた全ての言葉は不可能なことはない。≫となるのです。この「神の言葉」に対してマリアは「お言葉(神様のお言葉)どおり、この身に成りますように」(:38)と告白します。神様の言葉の命、即ち、神の命としての聖霊が現実となって形となる出来事、神が人となり、見えない神が、見えない神の愛が現実に経験出来るようにされたのが、イエス・キリストの出来事であるのです。
 罪赦されて主を待ち望む
 日本では古来、人が神に成ると考えられてきました。仏も神も同じような考えが伝承されるようになっています。しかし、過ちの多い、汚れた、罪深い人間が、完全な清さ、全き愛を生き抜くことは不可能です。
 神様に出会って罪深く、汚れた現実の自分自身に出会うのです。その時、私たちは「救われるためにどうしたらいいのですか」と、問いかけるのです。主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と、迷い、罪深く重い荷を負っている、悩んでいる人を招き、休ませて上げようと招いて下さるのです。神様は、人が、罪の為に迷い、苦しみ、破壊と混沌にある時にも、希望を与え、解決へと導いて下さるために、イエス・キリストとして人になられ、神様の御国の真理を語り、赦し合う愛を教え、実践してくださいました。み心を理解しないで、迫害する人々を赦し、どのような犠牲を払っても赦す愛に希望を示されたのです。それがキリストの十字架のメッセージであり、言葉、教えであるのです。クリスマスは、救い主イエス・キリストの御降誕を心から理解し、信じ受け入れる時です。イエスキリストの御降臨は、神の国の到来であるのです。クリスマスを迎えるために、イエス様は神であられたのに、人となってお出で下さったということをしっかりと心に留めてお迎えしたいものです。
主イエスよ、とく来たりませ!マラナ・タ!


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