2013年 12月15日 礼拝メッセージ 

平和の訪れクリスマス
イザヤ書11章1-9節

 年末です。大河ドラマも今日で終わります。「八重の桜」は、幕末の動乱期にあって数奇な人生を辿る八重をめぐるドラマでしたが、兄の山本覚馬は、会津藩の砲術師範で、すぐれた能力により砲術頭取となります。1982年、会津藩は京都守護職に任ぜられ、藩主松平容保と共に覚馬は上京しますが、会津は薩州と共に、禁門の変で長州藩と対決し、後の鳥羽の戦いでは薩長連合に敗れます。覚馬は禁門の変では砲術で軍功をたてたのですが、砲片の傷と白内障で失明し、薩摩藩に捕らわれます。しかし、在京中に江戸で学んだ洋学の学舎を開き、諸藩の藩士に教えて高名を博し、薩摩の牢中でも重んじられ、尊敬を受け、その日本近代化の知識は高く評価されたのです。明治8年(1875年)春、当時大阪で伝道中のアメリカの会衆派の宣教団体アメリカン・ボードの宣教医M・L・ゴルドンから贈られた『天道溯原』(漢文)を読んで大いに共鳴、キリスト教こそが真に日本人の心を磨き、進歩を促進する力となり得ると感じたのでした。その頃、新島襄と知り合い、彼の学校設立計画を知り、協力を約束するのでした。覚馬は維新後に購入していた旧薩摩藩邸の敷地(6000坪)を学校用地として新島に譲ったのでした。このことから、妹、八重は新島襄と出会うのです。襄が召され,覚馬が同志社の総長となり、その卒業式の訓示が前回の番組で放映されました。彼は戦争のない世界、平和の世界を造る努力を、聖書を通して語るのでした。
「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」(イザヤ2:4)“これからは武器で戦うのではなく、知力を持って平和を勝ち取らなければならない”と言うのです。この言葉を残して彼は召されます。会津は薩摩と共に禁門の変で戦い、鳥羽では朝敵となり、幕府掃討の根幹として和解を受け入れられず、殲滅の憂き目にあうのでした。武士道の生きざま、朝廷への忠誠は堅いのに、意図に反して朝敵となる。この歴史の理不尽な流れの中で覚馬は聖書の真理の言葉に導かれるのでした。神の言葉、聖書は歴史を越え、民族、国家を越えて全ての人の生きる道筋を示していることに覚馬は到達するのです。権力闘争の狭間で人々が苦悩し、正義とは何か、忠義とは何か、その底に潜む利害の駆け引きの間で戦争が起こり、憎しみがテロとなって殺戮が起こっているのです。見えない目で覚馬は心の目を開き、聖書を瞑想して、神様の約束される真実の平和を語ったのでした。
 彼は、薩摩の屋敷に捕らわれ、盲目の絶望と不安の中にありながら、日本の歩むべき近代化の道を構想したのです。国の仕組みの根幹である三権分立の「政体」に始まり、大院・小院の二院制の「議事院」、「学校」、「変制」、封建制から郡県制への移行や世襲制の廃止、税制改革まで唱えた「国体」、「建国術」、「製鉄法」、「貨幣」、「衣食」、女子教育を勧めた「女学」、遺産の平均分与の「平均法」、「醸造法」、「条約」、「軍艦国体」、「港制」、「救民」、「髪制」、寺の学校への開放を唱えた「変仏法」、「商律」、「時法」、太陽暦の採用を勧めた「暦法」、西洋医の登用を訴えた「官医」の創設などでありました。近代国家の極めて根本的な課題を整理した「菅見」(建白書)であり、先見性に富み、明治新政府の政策の骨格とも繋がるものでありました。西郷隆盛や多くの重鎮に認められ、やがて岩倉具視参議の来訪を得て解放され、京都市の顧問として知事を助けて大きな業績を残すのです。
 イザヤ書11章は、ユダヤの南北朝終焉期のBC8世紀に活躍した預言者イザヤのメッセージです。ユダを攻める他国、果てしなく続く争い、略奪、殺戮、戦争の恐ろしさと悲しさ、国を失う悲惨さを説きながら、神様を信じる人に約束されている平和の道を預言するのでした。それがクリスマスの出来事であったのです。
 「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。」(イザヤ11:1,2)エッサイとはダビデの父であり、ダビデの家系を現わしています。内乱と騒乱の民族対立の不安に覆われた士師の時代が400年続きました。神はアブラハムに神に選ばれた民への祝福の約束をされました。「主はアブラムに言われた『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。』」(創12:1−3)このように祝福の源としてイスラエル民族が選ばれていることに、神様が人類に希望と解放の約束をされている基があるのです。アブラハムの家族は様々な試練の中で、やがてヤコブの時にエジプトへ回避しなければならない飢饉に襲われます。家族の憎しみと兄弟の迫害の中で先にヨセフがエジプトに売られましたが、不思議な神の導きでエジプトで権力者に列せられる地位を得て、家族を赦し、迎えるのです。時は過ぎ、ヨセフも世を去り、イスラエル民族は異民族として迫害と搾取に苦しみます。嘆きとうめきの民、イスラエル民族は神の不思議な摂理でモーセが立てられ、苦難の中からエジプトからの解放が奇跡的に成し遂げられるのです。この出来事こそ、イスラエル民族がアブラハムに約束された神の民としての証しとして確証されるのです。その核心的な出来事はシナイでの律法の授受でした。この神の言葉を通して、神の民として確証を得ることになるのです。神様はこのことにより、イスラエルを通して神の国の回復を成し遂げるというメッセージをあらわされたのでした。そしてイスラエルは選ばれた神の民族とされたのです。出エジプトにおける過ぎ越しの出来事こそが、イスラエルの負った使命のテーマとなっているのです。神様は必ず、如何なる代価を払っても、言換えれば、犠牲をもってしてもこの世の圧制と弾圧、策取、抑圧から解放し、真実の平和、解放と平安を成し遂げる事を示されたのです。苦難を「過ぎ越した」夜の出来事を繰り返し回想することによって、神様の真実を信じて生きる希望を与えておられるのです。
 この「過ぎ越し」の出来事の成就、解放と救いの完成こそ、御子イエス・キリストの御降誕の出来事であるのです。出エジプト以後も繰り返し受ける様々な試練の中でも、「過ぎ越し」を記念、祭礼として、礼拝する時に鮮やかに活ける神は共におられる、インマヌエルの主であることを確認し、待ち望むことが出来たのです。
ダビデは無きがごとき羊飼いの少年でしたが、試練と戦いの中にも神様はダビデと共に行って、神の民の象徴である「契約の箱」を回復させ、アブラハムの約束の象徴であるモリヤの山、エルサレムに神殿の基礎を築いたのです。そしてイスラエルの民を統一し、神の民としての国を確立したのです。ここにイスラエル国家の基礎があると言われるのです。
このダビデの家系を通して神の御心、神の国の実現の「道」が示されることを約束されているのです。預言者イザヤによってその出来事は改めて語られます。「霊がとどまる」即ち、主の霊が満たされると強調しているのであって、「油注がれた者」というマーシーアハ という聖書の言葉が、「メシヤ」という言葉で表現され、ギリシャ語では「キリスト」であるのです。その方は「知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。」(:2)をもって治める道を示されることを預言しているのです。「霊」によって治めるとは、その方が真実の創造主であり、愛と義を持って治めることを示しています。神様の御心、神そのお方が治め、導くことを指し示しているのです。
その第一は、「知恵と識別」です。歪むことなく、公正な愛と慈しみに基づく「知恵」を持って、「見分ける」世界を築く、生活を立ち上げることであるのです。第二に、「思慮と勇気」、神様の愛と寛容による、適切な決断、実行、成就を示しています。第三に、「主を知り、畏れ敬う」人でありながら、神として子として父なる神の御心を完全に示しているのです。世の現象に流されず、現実の真実の姿を理解して解決に導かれるのです。そして「弱く」「貧しい」「虐げられている」人々にいつも身を寄せて、理解し、助け、導き、回復して下さる方、イエス・キリストを語っているのです。
主イエスの御降誕が告げられているのです。それは真実の平和の実現であるのです。神の国の実現の希望の道、救いの道、神様に出会える道を明らかにされる予告でした。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)と言われています。クリスマスは主の御降誕の日です。神様が平和の道を宣言されたのです。人類の救いの道が明らかにされた事を記念すべき日なのです。
 そして、やがて破壊された歴史は、主の再臨の時、神様との調和を取り戻し、人は神様の御心の愛を真実に生き、失われた自然の調和は取り戻され、真実の神様の平和が実現されることを示しているのです。クリスマスを心から祝おうではありませんか。
「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。」(イザヤ11:6−9)

「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」
(ロマ15:13)

 

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