2013年 12月22日 礼拝メッセージ 

「クリスマスの喜びと幸福」
ルカによる福音書2章1−20節

 12月になると繁華街にはツリーが立てられ、商店にはクリスマスの飾りや、イルミネーションが美しく彩られ、クリスマスを知らせるジングルベルの調べが流されます。日本の風土にはイエス様の教えは根差しにくいと言われていていますが、クリスマスは季節の行事として定着しています。クリスマス・イブにはたいていどの家でもクリスマス・ケーキを買って、子供と共にお祝いします。楽しいのです。子供はサンタクロースのプレゼントに夢を持ちます。お祭り好きの日本の風土はクリスマスに馴染んでいます。クリスマスを「心から喜ぶことが出来る」ことが、クリスマスの願いなのです。言うまでもなく、クリスマスはイエス様がお生まれになった日です。実は、イエス様がお生まれになった日は、何日か分らないのです。聖書の記録によれば、「皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。」(ルカ2:1、2)とあります。この出来事は、ローマ帝国に関連する諸資料にもあって年代的にも分かっているのです。ローマの習俗であった太陽神の祭りとして、一年で一番夜が長く、又、その日から昼間が長くなり、春を迎える日が、12月25日であったのです。永い闇の日を、太陽が輝き始める希望の日を、クリスマスの日として定められ、今日まで伝えられてきているのです。
 クリスマス、それは神の御子キリスト、救い主がお生まれになったという出来事が大切なのです。聖書には、イエス様がお生まれになる時起こった出来事が記録されています。その一つは、イエス様がお生まれになったベツレヘムの町の原野で、寒い夜空を見上げながらたき火をして羊を見守っていた羊飼い達に起こった出来事です。イスラエルには裕福な人も、地位があり、見識のある人々も多くいたのです。野原で野宿する羊飼いたちに、「神の御子がお生まれになった」出来事をなぜ知らせたのでしょうか。そこには神様の御心を知らせようとするメッセージがあるのです。
 その第一に、暗闇の野原で羊の番をする羊飼いたちは、不安と貧しさの中にいたことと考えられます。当時、二千年前のイスラエルは、ローマ帝国に占領されて、その支配下にあり、厳しい税金を取り立てられ、抑圧されていました。信仰や習慣は認められていましたが、力ある者の支配のもとで自由が認められない鬱積した状態で、絶えず反乱と蜂起が起こり、それを弾圧するという繰り返しであったのでした。抑圧された悲しみ、経済的に搾取される苦しみ、人間として見下される悲しみが渦巻いていました。希望のない、試練の時でした。しかし、イスラエルでは先祖から受け継いできた聖書、「律法」が人々の慰めであったのです。
イスラエルは神の民であり、真実の幸福の回復を成し遂げる救い主メシヤが来られるという約束が民の希望であったのです。どのような困難の中にあっても、この神様の約束に希望をおいて待ち望んでいたのでした。しかし、現実には人々は世界制覇によって、この世を支配する夢を持っていたのでした。言換えれば天国へは旧約の律法を守って行けるとするようになり、現実には優れた指導者が救い主として現れるというような傾向になっていたのです。そのような世情の中に、野原をわたりあるく、おそらく遊牧民である貧しい羊飼いたちに天使のメッセージが告げられたのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ2:10−12)羊飼いたちは闇夜に天が輝き、天空から聞こえてくる声に心を驚かせながら、ダビデの末から救い主、王がお生まれになるということを聞かされていることを思いめぐらしながら、そのみ声に従ってダビデの町、ベツレヘムを目指して歩き始めたのでした。
羊飼いはクリスマスの訪れを最初に告げられたのでした。貧しく、戦乱の不安の中で野をめぐり歩く孤独な羊飼いでした。当時の伝統的な考えでは、羊飼いは律法を知らないから、律法を守れない罪人として見下げられ、失われた民として軽蔑されている人々であったのです。人間としての尊厳を失っていたのです。神様はその羊飼いに救い主の訪れを告げられたのです。ここにクリスマスに示される神様の御心があるのです。虐げられ、この世から忘れられている人々にこそ、神様の救いの希望が必要であったと言えるのです。神様を忘れた人間の欲望、国と国との果てしなく続く争い、人が生きていくという競争の中で、弱者を強者が搾取し、支配する争いは、今も連綿と続いているのです。その根底に人々の生活があり、戦いがあるのです。悲しく空しく生きる現実に幸福の訪れ、クリスマスが示されたのです。神様に愛されている自分の発見です。そして神様の愛があるところに、解決と救いの希望があるという知らせであるのです。
第二に、羊飼いたちは告げられた言葉に従ってダビデの町、ベツレヘムに行ったのです。人口調査のために一族の本籍地であるベツレヘムに来ていたマリヤとヨセフは、混み合っていた町の宿に泊まるところがなく、家畜小屋に泊っていたのでした。その夜イエス様が生まれ、幼子は飼い葉桶に寝かされていたのです。羊飼いは、天使の告げたことが全てその通りであるので主を崇めたのでした。神の御子イエス様が家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたことこそ、神様の御心が語られていると言えます。宿屋が満員で、やむをえず家畜小屋に泊まり、そこでイエス様がお生まれになったのです。そこにこそ神様の御心があると言えます。人の住む所ではなく、赤子が飼い葉桶に寝かされるとはあまりにも侘しく、考えられないのです。尊い神の御子が何故と思うのが当然であるのです。そこに神様の愛の表れがあるのです。どのような事情、如何なる所であれ、神様はおいで下さり、人が見捨て、見放すところでもおられて、助けて下さることを示しているのです。神様の愛は限りなく謙遜の愛であるのです。神様の愛の可能性、全能性、打開性を現わしているのです。
 クリスマスは光を灯します。イルミネーションで飾ります。それは暗闇を照らす救いの光を現わしているのです。「命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:4、5)「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1:9)暗闇は争い、苦しみ、嘆き、憎しみなど、正に神様を忘れた世界であり、罪の世界を照らす光こそがクリスマスであるのです。その光こそは神様の愛であるのです。どのような犠牲をもっても救われる、解決の道を開かれる力であり、命である、神様の愛なのです。イエス様の家畜小屋での誕生のメッセージが、そこにあるのです。
 第三に、母マリヤに嬰児が生まれたら「イエス」と名付けなさいと、夢で天使がヨセフに告げたのです。(マタイ1:21)又、マリヤにも同じく語られたのでした。(ルカ1:31)イエスは、「神の救い」という意味です。人が見失っている真実の神様を、現実に見えるようにして下さった出来事こそが、クリスマスであるのです。見えない神の愛を見えるようにして下さったのが、イエス様の御降誕であり、その生涯なのです。イエス様は公生涯において、人が生きる上で最も幸福の鍵は、「愛し合う」ことであると教えられました。「愛し合う」」ことは、「赦し合う」ことであり、和解こそ「平和」の命であり、平和の命は愛しあうことにあることをお示しになったのです。どのような人にも自分の心の醜さを認め、欲情と欲望の奴隷になり、罪を犯し続ける心を、深く悔い改めて神様を信じ、神様の愛に生きることを教えられたのです。イエス様は神様の愛と恵みを語り、教えたために人々に慕われ受け入れられたのですが当時の為政者は、その民衆の迎合をねたみ、反感を持って窮地に至らせ十字架に架けるという道に至るのです。イエス様は、最後まで理解しない人々を赦して「敵をも愛せよ」と教えられた言葉を守り通して、十字架に自分をつける人々を赦し、執り成し、憐れまれたのでした。ここに真の愛があります。
 クリスマスこそ、神様の愛と平和が告げられる時であるのです。愛と平和があるところに幸福が約束されるのです。クリスマスこそは人類の平和、神の御国の実現の約束を告げる時であるのです。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。…言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子(イエス・キリスト)としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
(ヨハネ1:1−4,14)

 

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