阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年1月5日
「主イエスに望みをおく祝福」
ヘブライ12章1−3節

「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる者は、日々旅にして旅を住処とす。」これは松尾芭蕉の「奥の細道」の冒頭の言葉です。多くの人が「人生を旅になぞらえ」て言葉を残しています。また、鴨長明の「方丈記」の、「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし。」などの句が有名です。人の生涯は何かを目指して旅をしているようで、実際は川の流れという時の流れに流されて、「うたかた」(泡)の浮かんでは消え、消えては浮かぶように、人の家や営みもそのようなものだと言っているのです。人生の儚さを言っています。ですから一休和尚のように、「元旦や、冥土の旅の一里塚、目出度くもあり目出度くもなし」という句になるといえます。言換えれば人生の終着駅は死であるのだから、一年、一年というものを喜んでばかりいられないというのです。
 クリスチャンは際限の時を生きるのでなく、終わりのない人生を生きています。誰でも死という変化の時を迎えます。しかし、死は終わりでなく、永遠の命の変化の時であるのです。真実の神、自然と命の根源である創造の神様を見失う時、人は迷いと不安にさいなまされることになります。存在の終わりの死が消滅の時としてしか自覚できないのです。聖書は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)と約束しています。「滅びる」ことは自分を失うことであるのです。死は全ての消滅で、どれだけそれを悟り、納得しても、霊的な存在としての人の心の中に、平安と希望を自覚出来ないのが現実であると言えます。真実の神様は、活ける愛なる神様です。イエス様に出会い、神様に愛されている自分を発見出来るのです。神の御子イエス・キリストが、迷いと不安の就縛に捕らわれている人間の罪を贖うために、十字架の犠牲となられて死に、復活されることを通して「永遠の命」を証しされたのでした。「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(Tコリント15:20−22)キリストは復活の事実を通して、人の生きる「永遠の命」を支示されたのです。人は限りのある命を生きて死で終わると考えるのです。しかし、イエス・キリストを信じる信仰は、神様との回復、神様に生かされている自分を甦らせるのです。言換えれば、終わりのない、正に、はじめのない、「永遠の命」に目覚める、甦る、活き返る人生をキリストは取り戻して下さったのです。
真実の創造主であり愛なる神様のない人生は、一年一年、不確かな冥途の不安が、果てしなく空しく増していくのです。しかし、その人生にキリストの十字架は明快な結論を示しています。キリストは言われます、「私を信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)と。キリスの約束される「永遠の命」とは死後のことではなく、いま信じる信仰によって、「今」こそ、「永遠の今」として生かして下さるのです。現実の生活の中で神様は共にいて、働き、導き、教え支えて下さるのです。
 「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:19−20)私たちがキリストを信じる時、古い私は死に、キリストが私の内にいて生きておられるのです。そこに人生の勝利が約束されるのです。「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(Tヨハネ5:4−5)このみ言葉に立って、更に、確信するのです「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」(Tヨハネ5:14−15)この約束に立ってこの一年の祝福を求めたいものです。
 クリスチャンの新たなる一年の目標は、「主の御心に生きる」ことに尽きます。そこに祝福が約束されるのです。「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」(ヘブル12:2)信仰の指導者、信仰の完成者であるイエス様を見上げ、見つめ、御心を聴き、御心に従うことに目標があるのです。
さらに、「むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エペソ4:15−16)というみ言葉は、体全体がしっかり結びあわされて、各肢体はその働きに応じて成長して行くことを示しています。個々の成長と全体、教会の交わりの成長を目指しているのです。頭であるキリスト、その愛によって固く結びあわされ成長する姿を示しているのです。一人一人がキリストの愛に生かされる所に神の国、永遠の命の実が結ばれるのです。
 教会が何ものをも見ず、先ず自分を見ず、人を見るのではなく、ただひたすら“イエス様のみ”見上げる時、イエス様にのみ従う時に、成長と完成の約束が備えられているのです。勝利と成長、成功と勝利は“イエス様のみ”に生きる道に約束されているのです。「イエス様をのみ」仰ぎ望む時に、どのような結果が約束されているのか。
 第一は、「一致」が約束されている。皆が一つになってイエス様のみ、見上げることである。弟子達のイエス様の変貌の山の体験で、「イエスのほかには誰もいなかった」という経験です。イエス様を信頼する時、人々は同じ心になる。一致が生まれる。一致とは、思いの一致、願いの一致、望みの一致、愛の一致であるのです。その一致には第二に、「平和」が約束されるのです。「一致」のあるところには「和解」があるのです。第三に、「和解」は「赦し」があって初めて生みだされるのです。第四に、和解と赦しは「歓喜」を生みます。喜びは賛美となり感謝となるのです。喜びと感謝は人を生かす力です。人を生かす力は、人の命です。イエス・キリストにある平和と愛の命こそ、神の国の永遠の命であるのです。この年こそ、信仰の創始者であるイエス様を見上げ、信仰の完成者であるイエス様に従い、祝福の一年を目指そうではないか。その祝福であるイエス様が示された神様の愛に生き、その喜びを広げようではないか。イエス様にある一致、命の一致、教えの一致が平和と希望を生みだす。神様に愛されている喜びの輪を広げ、人々にイエス様の愛と希望、救いを宣べ伝え、神の国を広めようではないか。
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」(ヘブル12:2)


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