阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年1月12日
「成長を目指す確かなる備え」
エフェソの信徒への手紙4章1−13節

 新年には、人は新しい目標をかかげて歩み始めます。それぞれの年齢で、その年に相応しい段階を通るものです。若い世代には受験のハードルがあります。又、卒業する人には就職があります。家庭を持とうとする人は相応しい人と出会い、結婚を目指します。事業の経営にも成長と繁栄への挑戦があります。今年こそ新しい住まいを建設しようとする願いを持つ家庭もあるかもしれません。生活環境の中で様々な願いがあり、目標があることによって成長があります。成長が喜びとなります。
 詩編には「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(1:2,3)とあります。主の教えを愛し、絶えず、教えを口ずさむ人、その人がすることは全て繁栄すると約束しているのです。聖書に記されている信仰の原則を営む時に、祝福が実ると言っています。現実には成長の段階には様々な試練があり、ある時には挫折で苦しむこともあります。様々な出来事の中にも、なお神様を信じる信仰に生きることによって、勝利が約束されているのです。「それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。…わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。」(ロマ8;31,37口語)このお言葉の実現の道として「祈り」が教えられています。マルコによる福音書11章24節には「だから、言っておく、祈り求めるものは全て既に得られたと信じなさい。そうすれば、その通りになる。」と約束されているのです。
 このお言葉が生かされ、現実に実を結ぶには、「少しも疑わず…信じるならその通りになる」(11:23)という、全能であり、愛にして、善意なる神様を信じる信仰に根付いていなければなりません。キリストを信じる信仰の実際的な生き方を聖書は教えているのです。
エフェソの信徒への手紙4章では「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさい。」(:1)と勧めています。この「招き」こそ、神様の恵みによる選びであるのです。ヨハネによる福音書15章に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(:16,17)とあります。神様の選びに基づいて招かれ、その「招き」に「ふさわしく歩く」ということは、「主の御旨」に生きることです。主の御言葉、主の教え、主の御心に従う信仰の道であるのです。その御心には、「実」を結ぶ約束がそれに続くのです。わたしの名によって願うことは、主の御心を生きる、実践することであって、それは実りある祝福を約束するのです。そして、その約束の基本的な招きの御心とは、「互いに愛し合う」ことであり、祝福の根本的な「命令」の言葉であるのです。正に、キリストにおいて愛して下さり、示して下さった神様の愛が生活の命となり、生きる目標となり、勝利を約束する絆の基礎となるのです。
 エフェソ書の4章にある「招きにふさわしい歩み」こそ、成長の目標に到達する決定的な基本となるのです。最初に、謙遜、柔和、寛容をもてと教えますが、次に「愛をもって互いに忍耐し」という言葉が続きます。謙遜、柔和、寛容、忍耐は、聖霊の実として、最初の「愛」に集約されている(ガラテヤ5:22)と言われるように、「互いに愛し合う」ことが主の御心の基本であるのです。その主の愛をもって互いに愛するところに「絆」が形成され、その絆こそが「一致」を生みだすのです。平和が絆を形づくるのでなく、神様を信じる信仰が、神様の愛に生かしめ、その愛こそが絆となり、その絆が平和を生みだすことになるのです。「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」(エフェソ4:15)
 そこで、第一に、愛と平和と一致こそが祝福の基礎となります。改めて、その基礎的な主の御心は「神様の愛」に生きることであり、キリストに表された神様の愛をもって互いに愛し合うところに「絆」が生まれ、「平和」が約束されるのです。その絆こそは、「一致」を生みます。それが強ければ強いほど信仰が命として、神様の命としての聖霊が経験されることになるのです。様々な試練の中にあっても愛による絆が一致を生み、力、命として助け合い、忍耐の支えとなって道を開き、どのような時にも平安が備えられるのです。
 第二に、「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一である。」(:5,6)神様の「招き」を信じ、主を告白し、「洗礼」、即ち、新しく生まれ変わって「招きに生きる」こと、それは神様の御心に従う、生きることを意味します。主にあって神様との平和を与えられるのです。そこには「あなたがたが、一つの希望に招かれている。」(:4)と言われように、「希望」こそ目的であるのです。その希望こそは、「神様が生きておられる」という希望にほかならないのです。出エジプト記の17章には、エジプトから解放されて荒野でアマレクと戦ったとき、モーセが丘で手を挙げて祈った時、ヨシュアの先陣は優勢になったという出来事が記録されています。しかし、モーセが祈りの手を下ろすと劣勢になりました。モーセの手が重くなったのでアロンとフルはモーセの両手を日の沈むまで支えて続けたのです。そしてヨシュアの率いるイスラエルが勝ちました。この聖書の出来事は、使命と希望の実現の大切さを教え、希望による一致の祈りによって与えられる神様の恵みの祝福を教えるものです。祈りこそ、神様の御心を留める真実の道であるということです。一人では、疲れ、思い悩み、戸惑うとしても、共に祈りあうことによって道が開かれるのです。
 第三に、「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフェソ4:16)信仰による愛と平和と一致によって「絆」は一つ体、キリストの体(Tコリント12:27、エフェソ1:23)、即ち、教会として成長し、現実にイエス様は教会のその使命、その希望を実現されるのです。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。」(Tコリント12:27−31)キリストの体である教会は、部分部分が補い合って、その部分が分に応じて働く時、成長することを教えています。そして聖書は、「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」(エフェソ4:7)とあります。確かに一人一人は個性も賜物も違うのです。違う賜物が一つとなってその分に応じてその使命を達成させるのです。教会の一人一人の部分構成を巧みに聖書は指摘しています。「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(Tコリント12:24−26)これは神様の教会の交わりの本質を指摘しているのです。「互いに愛し合う」ことこそ教会の命であり、目標であり、基礎です。互いに愛し合うことこそ、互いに助け合うことであり、互いに補い合うことです。又、自分の分を越えて出るのでなく、自分の賜物を理解して生かすことによって、他を生かす、他が生きることこそ全体がその主にある使命を共有することになります。 モーセが神から出エジプトの使命を受け、自分は口下手で使命を果たしえないと戸惑った時に、神はモーセの兄であるアロンの雄弁に目を留めて代弁者として立てられた。(出4:10−17)
「互いに愛する」ことは、互いに理解することから、ゆずり、赦し、和解し、可能性と希望が生まれ、違う賜物を補い合って愛が実り、広がるのです。一致と平和、希望と可能性のあるところに喜びと感謝を分かち合えるのです。そこに成長と祝福の不可欠な備えがあるのです。
主を愛する一致、信仰の一致で出発。
 

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