阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年 1月19日
阪神大震災記念礼拝
「思い出と新しい夢」
ローマの信徒への手紙8章18−25節

1995年1月17日、午前5時46分52秒、突然、淡路北部から神戸阪神間を激震が走りました。震度7の激震、死者 6,434名、負傷者 43,792名、家屋全半壊249000件、約46万世帯が被害を受けたのです。あれから19年が過ぎました。道路には電信柱が縦横に倒れ、高速道路が横倒しになり、新幹線の高架が倒壊する情景は目を覆うばかりでした。一瞬にして人々の暮らしは壊滅したのです。そしてその後も日本列島では地震は続き、2011年3月11日に東日本大震災が起こり、今だかつて経験したことのないような地震、津波、原発事故で、今だに被害が続いています。あれから3年がたちます。災害で家族を失い、苦難を強いられた人々の苦しみを思い、共に生きる大切さを人として知らされるのです。このような災害を経験して、私たちが深く心に教えられた大切なことは、「絆」という言葉でした。災害は個人のどのような条件や事情も関係なく襲いかかります。そして持てる物、蓄えた物まで取り去って行くのです。しかし、災害を受けた人々を助けようと、親族近親者の人々は言うに及ばず、世界から善意が寄せられたのです。
 試練の中で人々は、「助け合う」ことを合言葉に絆が生まれ、援助し、応援したのでした。崩壊と苦悩の極限状態の中にある時、「助け合う」思いが大きな力となり、慰め、支えになったのです。日ごろ、平穏な日常のなかでは「助け合う」ことが影を潜め、差別があり、富の差が人を卑屈にしたり、高ぶらせたりします。人を見下げ、蔑視したりします。そして自己目的のために人を陥れたりして、人間性を疑う不信感が社会を覆います。しかし、大災害の中で多くの人々が苦悩する時、人は人間性を取り戻し、「助け合う」心をもって生きることになります。「助け合う」ことは、犠牲を払って人を助けることであり、「人を愛する」ことであるのです。全く利害関係がなくても、「困っている人」がいる、その人のために助ける事こそ、利害や打算を越えた「人の愛」の行為であるのです。正に、これが人間性の証しであると言えます。聖書は「神は愛である」と言っています。そして「人は神に似せられて創造された」(創世記1:27)と記されています。神に似せられて造られたとは、「神の愛に生きる」事が、人の本性であるということなのです。災害で人が全てを失い、そして生きることは、「助け合う」ことによるのです。全てを失う時、「真の人間性」としての、「助け合う」思い、即ち「愛し合う」事を取り戻す経験をするのです。どのような人でも、どのような出生であっても、命ある人として神様に創造されているのです。聖書の教えでは、「人の命」は神様から預けられているのであって、尊いものであり、粗末にしてはいけないものです。自ら命を絶つ自死は、最も重い罪となるのです。自分の命も他の人の命も同じく神様の前に尊いのです。ですから、「殺してはならない」と神は言われているのです。
 聖書には、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」(ロマ8:18)とあります。イエス様を信じる信仰は、可能性を約束しています。ヨハネによる福音書には、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(15:7)とあります。信仰はあらゆる苦しみから私たちを解放すると約束しています。しかし、実際には苦しみを受けることも多々あるのです。確かにロマ書8章18節では現在の苦しみは、将来に表される栄光に比べると取るに足りないと言っています。17節にあるように、「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光を受ける」というのです。キリストを信じることは、キリストの苦しみを共にするということです。使徒パウロは、コロサイ書1章24節に「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」と言っています。「あなたがたのために苦しむことを喜びとし」と言うように、この苦しみは、次に来る「キリストの苦しみの欠けたる」ところを補うという意味に理解してはならないのです。キリストの苦しみ、即ち、十字架のみ苦しみを補うということではないのです。主の十字架はパウロとて決して補う必要のないものであり、キリストのみ苦しみのみによって完成された救いです。これはキリストの体である信徒の群れ、クリスチャンの交わりにおいて、互いの「愛の交わり」、「互いに助け合う」ことによって、イエス様が十字架のみ苦しみによって勝ち取って下さった「愛のあかし」を、苦しみを共有することによって分かち合うことであるのです。
 悲しみや苦しみ、困難や試練の中で、「互いに助け合う」愛の実践を通して神に愛されている自分を見出し、「互いに助け合う」ことに「希望」を見出し、互いに支え、互いに労り、慰め、互いに生きる希望を見出すことができるのです。多くの人々の犠牲が単なる追悼に終わるのでなく、その痛みを心の糧として、未来に新しい希望を持つことが大切であるのです。使徒パウロは、「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」(8:21,22)と言っています。創造された自然の中で、被造物は苦悩と破壊、理解しがたい現実にあるともいえるのですが、「何時か、滅びの隷属から解放」解決され、調和され、回復する時が約束されているのです。神様の「栄光」が回復するというのです。現実の苦しみは理解しがたいことが多いが、「このような希望」(8:24)によって救われ、希望を持つことができるのです。
 確かに災害は人の知恵では予測は難しいのです。幸福を求めて科学は進歩し、生活は豊かで便利になっています。しかし、自然災害と科学の矛盾により、原発は破壊され放射能の脅威があるのです。科学の進歩は人の欲望の収奪の道具となり、神様の下さっている調和と愛の原則は崩されてしまっています。破壊と憎しみ、不信と対立を生みだしているのが現実です。神様が御子イエス・キリストの命を犠牲とし、愛する者ために「苦しむ」ことのみにより、解決の道、救いの道があるのです。
 今は「虚無に服する」という空しい現実であり、人の世も、自然の世界も「虚無」、空しい矛盾に満ちているのです。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」(:22)だからこそ、やがて「再創造の時」が約束されているのです。「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです」(:21)「滅びの隷属」、滅びの支配下、滅びの拘束、即ち、幸福を求めても得られず、築いても破壊され、平和を求めても戦いは終わらない、「滅びの虚無(むなしさ)」を言っているのです。その自由を取り戻す、解放する、救いこそが、イエス様の福音であるのです。
 この矛盾の苦しみの中で、イエス様が教えられた罪の空しさを悔い改めて神様を信じ、イエス様によって示された罪の赦しと神様の愛を受け入れて、神様の御国の実現を待つことこそ「栄光」、御心によって完成される神の国の時が約束されているのです。
だからこそ「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(8:24、25)とあります。過ぎし日の悲しい思い出を次の日の糧として、明日にキリストにある「希望」を持って、即ち、キリストのある明日への「夢」を持って前進しようではありませんか。
夢は過去の恐怖におののく回想ではないのです。それは病の夢であり、心を破壊する夢です。キリストの夢は明日への「希望」です。神が共にいて下さる時、その夢は希望と創造の夢なのです。

「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ5:2−5)ハレルヤ!!!

 

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