阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年1月26日
「ビジョンの一致と実現の祝福」
エフェソの信徒への手紙2章14−22節

 オリンピックは平和の祭典と言われます。2月には冬季オリンピックがロシアのソチで開かれようとしています。この地域は歴史的にロシアとオスマントルコの係争地で、ソチは高名な保養地となっていながら、イスラム勢力とのトラブルで、今もってテロの不安が伝えられていると言います。平和なオリンピックになるように祈るのみです。オリンピックは本来、人の闘争心を昇華して、楽しみに変えたものと言えます。あくまでもルールを守って勝利を競い楽しむのです。
人が生きるためには自己欲が中心となります。弱者を支配して様々な物を獲得し、それを支配して生活の安定を求めるようになります。そこから持てる者と持たない者との格差が生まれ、差別が生まれます。本来、人は神様に似せて造られた存在であり、「神が愛である」ことから、「愛し合って」生きたいのですが、神様の愛を忘れた自己欲の奴隷になる時、格差と差別が憎しみとなり、対立となり、争いとなり、本来、「愛し合って」「平和に生きる」神様の御心を失うことになるのです。「愛し合う」ことは「和解」して出来ることであり、「和解」は「赦し合う」ことによって成り立つのです。和解は「希望」です。
 「実は、キリストはわたしたちの平和であります。」(エフェソ2:14)と使徒パウロは言っています。そしてコロサイ書1章20節には、「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」と記しています。キリストによって父なる神様と和解するということは、「神様の御心に生きる」ことを根本的に意味します。エフェソ書には「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。」(エフェソ2:14−17)と記しています。
人は、キリストの十字架によって示された神様の愛を知り、自己欲の罪を悔い改め、その愛を受け入れる、神様を信頼することによって「罪」赦され「和解」を経験するのです。この世の国籍や人種、又、この世的な偏見や差別を越えて、「聖なる神の家族となる」のです。「このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。」(2:18−21)イエス・キリストを信じる者は、「聖なる民に属する者」即ち、イエス・キリストの十字架の犠牲の血よって、聖なる神の家族となっているのです。そして、神の家族の家こそは「教会」であるのです。「そのかなめ石」は、「イエス・キリストである」のです。クリスチャンは「主の祈り」で、「御国をきたらせたまえ」と日々祈るごとく、神様が共においでになる、神の国が現実になることを祈るのです。「御心」、すなわち神様の御旨が、地上に実現出来るようにと祈るのです。それは、キリストを信じて、御心に生きる人々を通してキリストの教会、キリストの体としての教会が建て上げられることを祈ることに他なりません。そのことを21節の御言葉が指摘しているのです。「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。」(:21)そして、このことは「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(:22)と続きます。信仰によって建てられた神の家族として、「霊の働き」、即ち、聖霊なる神である主の御心に生き、御心を実現するクリスチャンの交わりが「神の住まい」となるのです。神様は遠いところにおられて、必要な時にいて下さるのでなく、神様はクリスチャンと共に生き、共に住まい、共に生活して下さるのです。
 ですから、先ず、第一に、キリストを信じる信仰は、「神様の御心に生きる」ことであって、神様から離れ、忘れ、無視して自己中心に生きる儚さと空しさ、罪深さを悔い改めて、どのような罪でも赦すキリストの十字架の愛を知り、その赦しに生きることこそが、真実の和解、真実の平安、平和を生きることにほかならないのです。そこに神の御国があり、神様の実在を現実に経験するのが、キリストの教会です。真実の教会、活けるキリストの教会、神様の愛が息づく教会を目指すことこそクリスチャンの願いであり、ビジョンであるのです。改めて、「信仰の導き手であり、完成者であるイエス・キリストを見上げる」ことこそが、成長の道筋であるのです。ビジョンはキリストにあるのです。キリストが何を教え、何を示し、どこへ向かって歩むように示されているのか。満ち足りた豊かな現実にあっても、絶えず襲い来る生活不安、災害の不安、環境破壊の恐怖の迷い、解決のない現実の世相の流れに、「真実の和解と平安」の福音、安らぎの訪れは、活けるキリスト教会から流れ出るのです。その成長した教会こそ、救われたクリスチャンの目的であり、ビジョンであるのです。
 第二に、そのビジョンは祈りによって実現します。主は言われます。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:19−20)二人の者が心を一つにして祈る、そこに完全な可能性が約束されています。二人とは人の集団の最小条件です。二人です。そこに教会があるのです。そこに「主は共に」おられると約束されています。
 ヨシュア記6章に、イスラエルがエジプトから解放されて、約束の地を前に、最初に直面した難題はエリコの要塞でした。難攻不落に見える城、エリコの軍勢もイスラエルが主の奇跡によってエジプトから逃れ、多くの敵と対峙し、食糧や水に困りながらもエリコにたどり着いたことを知っていた。彼らは持久戦に入り、イスラエルは打つ手を見出せなかった。一方、イスラエルはシナイの荒野で40年におよぶ旅を続け、闘う武器や、道具は使い果たし、闘う武力は乏しく、偉大な指導者モーセを失った直後であり、新たな指導者ヨシュアは、モーセの後を受けたことも不安であったと言えるのです。しかし、ヨシュアはモーセの信仰を受け継いでいたのです。彼は祈ります。神様は、ヨシュアに、「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。」(ヨシュア6:2−5)と言われるのでした。ヨシュアは、主の御言葉を守り、主の契約の箱をかついで行進するのでした。そして最後にラッパを吹くと城壁は崩れ落ちるのでした。この故事から教えられることは、どのような悪い条件が重なっても、主の御心を信じて、確信して進む時に、主は道を開いて下さるということです。祈りの一致、継続の祈り、信じて祈る、そこに道が開かれることを約束しているのです。ビジョンの実現は祈りにあるのです。
 第三に、「霊の働きによって神の住まい」となる。(エフェソ2:22)とあります。霊の働きによって、形づくられる教会こそ、「神の住まい」となるのです。18節には、「このキリストによってわたしたち両方のものが一つの霊に結ばれて…」とあります。霊に結ばれるとは、一人一人が神の実在である聖霊の内住を頂いているということです。神様は遠くにおられるのではなく、身近に、内にいて下さる。共におられる方であるのです。語れば答え、祈れば聞いて下さり、守り、導かれ、支えて下さる、活ける神であるのです。聖書は天使について記しています。それがいつの間にか信仰の功徳のある人を偉大な聖人として崇めるようになり、セント・ニコラスは子供の守護神、誰々は船乗りの守護神というような伝承が出来て来るようになるのです。しかし、聖書を離れた伝承を宗教改革で解消し、「聖霊の働きと導き」を信じる人々に、聖書の約束に対する信仰を回復したのです。ビジョンは聖霊の導きと助けによって実現すると言えます。聖霊はイエスの霊として、現実にキリストの約束を結ばせる力、命として働かれるのです。「霊に満たされる」(使徒2:38)ことを、日々の歩みで体験しなければなりません。聖霊に満たされてこそ、「キリスの御心を生きる」こととなり、「キリスの愛」に満たされ、キリスの愛が息づく、活ける神の教会であるのです。聖霊を求め、聖霊に従い。聖霊に生きる、愛の教会を目指しましょう。

 

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