阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年 2月9日
「新しい誕生と成長の喜び」
ルカによる福音書10章38-42節

 先週の日曜日には鈴木優喜ちゃんの献児式がありました。可愛い赤ちゃんです。神様の祝福のうちに導かれ、幸いな人生を送るように祈りました。新しい人生の始まりです。また、先日は上海から林あすか姉が帰ってきてくれました。成人式を迎えるようになりました。今は北京教育大学で学んでいます。私たちが20年前に北京を訪れた時のことを思い出しました。彼女は可愛い赤ちゃんでした。その赤ちゃんが立派な女性に成長しているのです。日本語はもちろんですが、中国語も大変に流暢なのです。成人を迎えた彼女の人生に幸多かれと祝福を祈ったのです。両親に抱かれた優喜ちゃんを思いながら、20年後の成人式にはどのような青年になっているのかと思いを巡らしたのです。献児式は、両親の信仰による愛から授かった新しい命を感謝して、神様の恵みと愛に生きるようにと人生の祝福を祈ることです。子供の誕生の喜びとと共に、成長していくという希望の喜びでもあるのです。
赤ちゃんであったあすか姉が、聡明で可愛い成人になった姿を見て感動しました。彼女をはぐくみ、育ててきた両親の歩みを知っているからです。あすか姉の両親は若くして中国語にあこがれて学び、学舎にあって知り合い、結ばれました。卒業後、あすか姉の父親は青果関係の日中貿易会社に就職するのです。バブル経済の流れの時代で、厳しい環境で試練を通り、幾つかの会社を経験し、中国と日本を行き来する中で戦いが続くのでした。上海の邦人クリスチャンの交わりのなかでクリスチャンの事業家の人と出会い、導かれてベルコの工作機械の会社に働くことになり、無錫工業団地の壮大な敷地の、新しい工場の建設に携わるようになり、彼の中国語が生かされて会社が建ち上がったのでした。様々な試練の中で彼は辛苦を乗り越え、祈りと難しい中国の人事管理をなしとげ、今は総経理〈社長〉として事業を担っているのです。その陰にあって彼を支えてきたあすか姉の母親の心労を思いはかるのです。あすか姉が育てられ、はぐくまれてきた背景には、両親の様々な試練と苦悩と努力があったのです。どんな時にも聖書の言葉に導かれ、信仰の希望に支えられて祝福の日を迎えたと言えます。その聖書の言葉、「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ5:2−5)この言葉こそが支えであり、力であったのです。
先週は、教会宣教総会があり、新しい年の計画が祈りの内に与えられて、今新たな出発の第一歩を踏み出そうとしています。新しい歩みはじめであるのです。与えられたビジョンの実現、成長のために、何がなくてはならない根本的に大切なものであるかを自覚しなければなりません。
 ルカによる福音書10章38節には、イエス様と弟子たちが旅をされていてある村に入られるという記事があります。そしてマルタとマリヤの姉妹が登場します。ある村とは、マリヤとマルタ姉妹が住むベタニアの村(ヨハネ11:1)であると言えます。この村はエルサレムの東1里近くにある村であって、イエス様がエルサレムに行かれる時には、マルタ、マリヤそして弟のラザロのいるこの家にお泊りになったようです。この三人の両親はもう召されているようで、姉弟で暮らしており、姉のマルタが母親代わりのようでした。村の近くにイエス様一行が近づかれると、マルタは嬉しくてイエス様を迎えに行ったのです。そして自分の家にお招きして、接待のためにせわしく動き回っていたのでした。マルタもマリヤもイエス様を愛していました。来て下さった事が嬉しくて仕方がないのです。一行と書いてあることからして、おそらくお弟子さんたちも何人かは一緒であったと言えます。大勢の人たちをもてなすのであれもこれもと気ぜわしく動き回っていたマルタがふと気がつくと、妹のマリヤはイエス様の座っておられるそばで、イエス様の語られる言葉に聴きいっているのでした。せわしく動き回っていたマルタはそれを見て、イエス様に「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが。なんとも思いにならなりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃって下さい。」(:40)と言うのでした。そこでイエス様は、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。(:41,42口語)と言われるのでした。
 ここで示されている第一の教訓は、マルタの訴えです。それはマリヤを訴えているのでなく、イエス様への訴えであるのです「何とも思いにならないのですか。」ということは、「わたしはイエス様や御一行のみなさんのために一所懸命に気を使っているのです。」言換えれば、「わたしは正しく、イエス様のお気持ちと一緒であるのです。それだのにどうしてマリヤをそのままにしておられるのですか。」という意味です。イエス様に訂正を求めているのです。確かに来客をもてなすことは大切です。わたしたちが主のために奉仕をし、与えられた目標を目指して働くことは大切です。しかし、教会本来の最も大切な信仰の本質である、イエス様の御心、神様の愛によって愛することを第一にしなければ、人間性を失って批判と不満、そして憎しみと自己満足の傲慢が祝福を失うことを教えているといえます。
 第二に、どんな時にもイエス様に聴く事が、祝福の鍵であって、成長、成功の基本であることを教えているのです。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ロマ10:17)信仰の芽生えは、「キリストの言葉を聴くことによって始まる。」というのです。キリストの言葉こそは、全ての原点なのです。信仰、即ち、神様との繋がり、交流は、キリストが十字架に架かって下さったことによって、回復されたのです。キリストの言葉、即ち、十字架の言葉(Tコリント1:18)を聴くことから、神様のすべての祝福の回復が始まるのです。イエス様は「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」と言われています。共同訳は「必要なことはただ一つ」と訳しています。それこそが「キリストに聴く」ということであるのです。このことこそ、なくてならない大切なもの、何にも代えがたい尊いものであるのです。教会と一人一人の新しい成長のためになくてならないものは、「キリストの言葉に聴く」ことであるのです。
 第三に、教会の宣教の成長は、「キリストの言葉」を一人一人が豊かに宿すことです。それが根本的な課題であるのです。コロサイ書3章16節では「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。」と教えています。そして初めて「知恵を尽くして互いに教え、諭し合う」事の出来る教会に成長するのです。「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」(詩篇119:105)
「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩篇1:1−3)


 

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