阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年2月16日
「人を幸せにする福音の恵みと命」

 「一銭を笑う者は一銭で泣く」と言う諺があります。今日では一銭と言う単価は日常では使われてはいません。理髪代15銭、そば2銭、カレーライス6銭というのは明治の終わりごろの値段であると言われます。はがきが1銭5厘で、当時は兵役の召集令状がはがきでだされたことから、人の命は1銭5厘の値打ちかと、その軽さを怪しんだようです。しかし、最小単位のお金も軽んじることはできません。例えば電車の切符を東京まで買うのに1万4千円いるとしましょう。手持ちが1万3千9百99円あっても1円足りなければ買うことは出来ない理屈です。人は物の価値を知ることによって、初めてその尊さがわかるのではないでしょうか。 マタイによる福音書13章には天国が譬えで教えられています。今日の箇所は、天国の譬の後半の区分に当たりますが、その前半は畑に隠されている宝物と、良い真珠の値打ちが天国の尊さを教えているという譬えです。天国とは正に、信仰によって与えられる人生の方向転換であるのです。天国は、死後に地獄と天国として分けられる有限な時間の変化をいうのではありません。天国とは神様が共におられる現実を指しているのです。確かに死後において天国、即ち神様のおられる御国があるのです。しかし、天国は永遠であるのです。永遠は始まりもなく終わりもないのです。ですから今、現在、神の国、天国を生きる、天国を約束する神様の恵みの中を生きることが出来るのです。
 第一に、ここで教えていることは、「天国」の真実の尊さ、世俗的に言えば「値打ち」「価値あると思う」、その認識が、如何に大切かを教えているのです。ある畑に宝、「値打ち」のある高価なものが隠されていることを知った人は、なんとかして情報を漏らさずに、持ち物全部売り払ってその畑を手に入れるという譬えです。真珠を買う商人の譬えも、今日のように真珠の養殖が出来るような時代ではなく、約2千年も前のことであり、大陸の土地環境にある地域背景には、如何に真珠が高価な宝石であったか。そして、それを商うことが莫大な利益をもたらす事を知っている商人は、やはり「持ち物」全部を処分してそれを手に入れるというのです。
この二つの譬に共通するのは、「値打ち」を知っていることであり、それを手に入れるために「持ち物」を全部処分し尽くすということです。天国の真価を知る人は、「すべてのもの」を処分してでも、それを手に入れるという事を教えているのです。勿論、畑に隠されている宝物を独り占めにするのではないかという事が指摘されるかもしれません。しかし、これは譬(たと)えであって、比喩(ひゆ)ではないのです。比喩は細かいことに意味を持って譬えます。しかし、譬(たと)えは、物語に意味を見出し、筋道を細かく見ることをしないのです。ここでは「値打ち」の真価を知ることに意味があるのです。「天国」に生きることが、何にも代えがたい価値を持っていることに[目覚める]ということに大きな意味があるのです。「天国」即ち、神様と共に生きることの大切さ、素晴らしさ、尊さを知ることの重要さを教えているのです。
 第二に、イエス・キリストと出会い、初めて神様の愛に、又その尊さに「気づく」ことができるのです。イエス・キリストに出会うことは、自分を知ることであると言います。誰も神様を見ることは出来ません。しかし、イエス様は神の御子として、神であられたが人となって、神様を見えるようにして下さったのです。フィリピの信徒への手紙2章に、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執(こしつ)しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」と記しています。そして、「イエスは叫んで、こう言われた。『わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。』」(ヨハネ2:44−45)と記しているのです。イエス様は、人は誰でも神様の恵みと愛を自覚しない。自己中心で罪深く、人の歴史は争いと憎しみの連鎖で、戦いで血に染められていることを示されるのです。人の心は限りなく闇に包まれ罪深いのです。また更に、神様の御国は漁師が網で漁をして魚を引き上げ、魚を悪いものと良いものに分け、悪いものを投げ捨てると譬えています。それは現実の世界の罪深い姿を指摘しているのです。神様を知らず、神から離れ、争いと罪の坩堝(るつぼ)のような現実こそ、地獄、神なき世界であるのです。ヨハネによる福音書8章12節で、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」とイエスは言われているのです。イエス様は世の光であり、人の世の暗闇を照らす光です。イエス様は「命」として、「神の国」、天国への救いの道を開かれているのです。
 第三に、イエス様は譬えを話し、弟子たちに「分かりましたか」と問われるのでした。弟子たちが「分かりました」と言うと、イエス様は「あなたがたは天国のことを学んだ学者である。」と言われたのです。弟子は「学ぶ者」という意味があります。学者とは、学問をした人であり、専門家であるのです。「天国学」の専門家であって、天国のことを学んだ知識、経験により、人々に教え、見せることができるということなのです。正に、そのことにより「一家の主人」であるというのです。主人とは英語でマスターです。大学で学び、その道を習熟した人、教えることが出来る人に、「修士」(マスター)の学位が出されます。天国のことをマスター、習熟していることをいうのです。正に、一人一人のクリスチャンはイエス様の弟子であり、天国を習熟したものであり、現実に天国を生きる、神様と共に生きていることを教えておられるのです。
 クリスチャンは、「気づいた」人であるということです。イエス様によって神様が命と存在の源であり、人を愛される神であることに「気づく」ことが信仰の始まりであるのです。信仰による神の国の尊さ、何ものにも変えがたい価値を見出し、あらゆるものに勝って重要であり、大切な、血であり、息であり、命であるのものとして自覚するのです。使徒パウロはその福音、イエス・キリストに生きる信仰の尊さをフィリピ3章8節と9節に吐露しています。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいるものと認められるためです。」クリスチャンは現実に神様と共に生きるのです。主イエス・キリストの御言葉に学び、御心に生き、福音を証しする喜びの人でありましょう。そこに平和と希望の実現の道があるのです。

 

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