阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年2月23日
「人を生かす信仰の力」
マタイによる福音書8章5-13節

 人はお互いに信頼して生きるものです。何事につけ信頼出来ないとしたら、そこには不安と猜疑(さいぎ)が生じて身動きが取れなくなるのです。信頼することによって交流が始まり、その信頼を確かめ合うことによって絆は強くなるのです。「信じる」というギリシャ語は、πιστεύω(ピステウオー)で、ピステスという名詞は「信仰」という意味であって、「信頼」という意味でもあるのです。家庭や、地域社会、職場、町の成り立ち、国の仕組みも人々の信頼によって成り立っているのであって、この世から互いに「信じ合うこと」が失われる時に、争い、憎しみ、対立、抗争、破壊、戦争が起こることになります。
 古来、人間は、よりよい道具を造って収穫を得、豊かになるとその豊かさを守るための道具、武器を発明してきました。さらにその富を増やすために戦争や侵略が起こり、未開の土地や、貧しい人々を支配して強い国が大きくなってきたのが人類の歴史です。そして、どのような宗教も権力と一緒になる時、この流れに流され、宗教の真理は見失われることになります。しかし、このような罪深い歴史の流れの中で、真実の神であり、すべての存在と命の根源である創造主なる唯一の神、愛にして聖なる神は、「愛」である故に生みだした人間を愛し通されるのです。「愛する」ことは「責任」をとることであり、それにより「愛」が真実となるのです。タゴールの「愛することは信頼することである」ということばは、正に真実であるのです。信頼のない愛は真実ではありません。「信じ合う」ことこそ、「愛し合う」ことであるのです。信頼しないのに愛し合うことは出来ないことです。信頼と愛の関係が破壊される時、そこには不信が横たわっていることになります。行為においてか、言葉においてか、約束を理由なく反故(ほご)にしてか、絆が失われ、約束が破られる時に、信頼は失われることになります。亀裂した関係は、「和解」しなければ回復できないものです。
 人の歴史は、はじめに指摘したように、富と強者は、弱者を支配し、収奪、領土を拡張する歴史であったのです。創造の原理を忘れ、神様を見失った人の罪深い世界の姿であるのです。しかし、神様は愛である故に、創造の父として人類に回復と平和の道を表わされ、破壊と対立という罪深い現実を解決し、救いの道を示されたのです。神様はイスラエル民族の始祖であるアブラハムを選び、創造と命の根源であり、創造主なる神を示し、神様の愛と真実を証明されたのです。神に選ばれていながらも依然として失敗し、ともすれば神様から離れ、神様の御心から迷い、さまよう歴史の歩みの中で、赦し、いたわり、希望の言葉を与えて再起させ、なおも御心から遠のく民に、約束の救い主メシヤ、キリストを送られ、愛と赦しの原理、和解と平和の救いの道を示されました。それがイエス・キリストの生涯、十字架の贖罪の出来事であったのです。
 イスラエルが選民として選ばれたのは、立派な意志の強い、優れた民族であるというのではなく、神様の御心を示すためにモデルとして選ばれたと言えます。神様が愛であることを、イスラエル民族を通して様々な方法で教えられてきた記録が聖書であるのです。イスラエルは、神様に愛されていながら、ある時は不信仰に陥り、御心から離れて罪を犯し、苦悩にあえぎながらも信仰によって再起する道をたどりながら、神様の愛を信じ自覚していったのです。しかし、イスラエルは約束の救い主、神の御子イエス・キリストを拒み、十字架に架けるという神様への反逆を犯し、なおもそれに気付かず、キリストを信じる者を迫害したのでした。しかし、究極的な神の民の逆走を、神様は、なおも赦すことを御子イエス・キリストによって示された記録が新約聖書であるのです。主イエスは、十字架上で最後に祈られるのです「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているか知らないのです。」(ルカ23:34)神様は、愛する者のために責任を負い、御自分で愛する者の罪の赦しを示されたのです。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ロマ5:8)キリストの十字架の犠牲こそは、神様の愛を現わしているのです。人類の根源的な罪の闇、真実の愛を見失った悲劇を根本から解決されたのが十字架の犠牲の愛です。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」(Ⅱコリント5:17-20)キリストの十字架の愛こそ、すべてを和解の道に至らせる救いであり、解決の道であるのです。
 マタイによる福音書8章には、ローマの百人隊長の信仰の姿勢を通して、「信じる」ことの大切さ、重要さ、尊さを教えているのです。イエス様がカファルナウムの町に入られると、ローマの駐屯部隊の百人隊長がやって来たのです。当時、イスラエルはローマ帝国の植民地で、駐屯部隊はその町の治安と行政権を持って支配していました。ローマの植民地政策は、民意を認めて因習や宗教に介入しなかったのです。近世の植民地支配は、宗教や因習を踏みにじる悲惨なものでした。百人隊長は、イエス様が一介の放浪の祈梼者であることは知っていたのです。しかし、その教え、祈りは多くの人を癒やし、孤独な人達に平安を与え、多くの奇跡を行っているという噂を聴き、心ひそかに尊敬していたのです。
 第一に、百人隊長は「懇願」します。中風を患っている僕、と言っていることから、高齢の僕であったと思われます。おそらく長い間、仕えてきた僕であろう部下が、中風で苦しんでいるのです。その愛情と思いやりで、ユダヤ人であるイエス様に、心から尊敬の思いを持って願っているのです。おそらく高名な行政官であり、また支配者であった百人隊長に、イエス様は「言って癒してあげよう」と言われるのです。しかし、百人隊長は、「自分の屋根の下にお迎え出来るようなものではない」と言い、「ただ一言お言葉を下さい。そうすれば僕は癒されます。自分にも部下がいて、権威を持って命令すれば何でもします。」と言うのでした。当時のユダヤでは、ユダヤ人は真の神を信じていることから、神を信じていない人を家に入れないというしきたりがあったのです。「自分はあなたの家に入ることはできない」と言っているのです。当時のローマの兵隊たちは、細かい因習があっても権力者として、しばしば住民を無視して横暴な振る舞いもしていたようです。隊長である権力者のことを思って、イエス様はわざわざ行って祈ってあげようと言われているのです。百人隊長には、支配者、権力者として植民地の民を差別し、支配する上からの目線はそこにはないのです。イエス様は、支配者としてイスラエルに憎しみと侮辱を与えるローマ帝国の隊長であるこの人に対し、この世の障害を越えて神様を求める人として、温かく接せられているのです。人間的なこの世の仕組みを超越し、心を開いて求める人に神の愛による救いの機会は開かれているのです。主イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と言われるのです。
 第二に、百人隊長は自分と部下の関係において、上官である自分の言葉の権威を知っていました。それによりイエス様の権威を信じ、イエス様のお言葉に対する尊敬と信頼をもって、「お言葉を下さい」と言うのでした。イエス様はこれを聴いて「感心」し、従ってきた人々に「これほどの信仰を見たことがない」と言われるのでした。「感心」という言葉は、聖書〈言語〉のθαυμάζω(サウマゾー)という言葉で、「不思議に思う」「驚く」「驚嘆する」などの意味があり、それはまれに見る稀有(けう)なことで、不思議に見えるし、思うことにある。百人隊長は異教社会の中で生きてきて、既にローマにはアポロの大きな神殿があり、皇帝崇拝の因習もあったのです。イエス様の愛と赦しの福音、愛にして全能なる神の祝福を、百人隊長はまったく違った立場にありながら、心から敬服し、信じていたのです。イエス様の驚嘆は、百人隊長の謙遜であり、純粋に神様の愛を信じ受け入れている事実であるのです。「イエス様を自分の屋根の下にお迎え出来ない」、それは非支配者であるユダヤ人の他民族を見下した取り決めです。ある意味のローマ人への差別的な因習に謙遜にも配慮する百人隊長の謙虚(けんきょ)さに、イエス様は「驚嘆」されたのです。赦されない、受け入れられないと考えられていた異邦人である彼を、その信仰により祝福をイエス様は与えられたのです。
第三に、信仰こそ、神様の愛に気づくことであり、受け入れることであるのです。神様は、全世界の人々への福音、神の愛のあらわれとして、キリストの十字架の犠牲を払って、罪と憎しみの悲劇を和解へと道を示されたのです。信仰とは、神様への信頼の回復です。神様の愛こそ信頼による和解です。そこに全ての解決の鍵があるのです。

「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」(コロサイ3:12-14)

 

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