阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年 3月2日
「虹の架け橋希望の約束」
創世記9章9―17節

 人が幸せに生きることは大切なことです。「幸せ」は人の満足であり、人によって、それぞれその思いや願いは違うものです。「衣食足りて礼節を知る」と、よく言われます。衣食住という、人の生きる為の最小限の環境が満たされて、「人間らしく礼節」をもつことが出来ると言うのです。しかし、今日のように食べ物が溢れ、働けば生活が出来き、快適な暮らしが送れる時代であっても、善意を食い物にする「おれおれ詐欺」や、生きることがいやになって無差別に人を車で傷つけ、殺傷するといった事件が後を絶えないのです。石川五右衛門の辞世の句には、「浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」とありますが、たとえ大盗賊と言われる悪い人間がいなくなっても、この世の中には「悪」は尽きることがないと言ったのです。どのような罪でもそこには罪の種があるのです。イエス様は心でみだらな思いを持つことは、姦淫を犯すことであり、心で人を憎むことは殺人を犯すことであり、人のものを欲しがる思いは、盗みをすることであると教えられています。(マタイ5:27―30)
人は、本能的に食べたい、良い思いをしたい、お金がほしいなどと欲望を持っています。食欲、性欲、所有欲、金銭欲などは人が生きるために大切な基本的な欲望であるのです。人は欲望がなくなれば生きることは出来ないと言えます。しかし、人は自分だけ一人で生きているのではありません。先ず、家族と共に育ち、生き、社会に出て共に生きるのです。「共に」生きることは「愛し合って」生きることです。「人間は神に似せて造られた」(創世記1:27)のです。「神様が愛である」ように、人も愛し合って生きる時に、人として生きることが出来るのです。他の人のことを考えないで自分の欲望だけで生きる時には、その欲望を果たすために他の人を犠牲にすることになり、「愛」が失われ、即ち「人間性」が失われることになるのです。
 創世記6章から9章にノアの物語が記されています。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」(創6:5,6)ここに神様の深い後悔の思いが記されているのです。神が心を痛められているという言葉に、人間の罪性の深さが浮き彫りにされています。神様はそのような、人の堕落に対する警告として、洪水をもって回心を迫られるのです。罪悪から目覚めるよう、警告として洪水を予告されるのですが、なお、その警告と共に逃れる道をノアを通して示されるのです。ノアは、「正しく、全き人」(6:9)と口語訳には訳されていますが、共同訳では「無垢な人」と訳されています。確かに「正しい、全き人」とは、「義人」で「完全な人」というようになりますが、「無垢な人」とは執着、煩悩がなく、世間ずれしていない、子供のように純真なことを言うのです。そして8節では「恵みを得ていた」《口語訳》とあり、共同訳では「好意を得た」と訳されています。罪深い、人が神様から離れてしまっていた時でも、ノアは神様に従い、従順であり、幼子のような心情で慕っていたのです。言換えれば、罪と腐敗の罪業の坩堝(るつぼ)の中で、そのような心情のノアを、神様は愛し、選ばれていると理解出来るのです。
 神様は、洪水の予告と共に、ノアと家族を救うために箱舟の建造を命じられました。箱舟の詳細なサイズや構造を示し、巨大な箱舟を建造させられるのです。ノアの家族と共に、地上の生き物のつがいを入れるように示されるのです。完成までには相当に月日がかかり、この造船は、多くの人々の目につき、注目されたに違いありません。おそらく、人々は何が出来るのかいぶかり、ノアに尋ねたでしょう。しかし、ノアの説明には誰ひとり関心をもつ者がいなかったようです。新約聖書のマタイによる福音書には「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。」(24:38)と記されています。ノアは人の罪悪と堕落を神様が裁かれ、やがて洪水が起こることを予告したに違いありません。しかし、人々はそれを信じることなく、無視したのです。
船が完成し、生き物が入れられても、雨も降らず、人々は気が狂ったようなノアを嘲笑ったかも知れません。7日経ちました。雨が、ぽつぽつと降り始め、やがて豪雨となったのです。一日経って止むだろうと人々は思いました。しかし、2日経っても、3日経っても止まず、洪水は町に侵入し、畑は池のようになり、10日、20日と降り続くのです。とうとう小高い丘は水に沈み、40日40夜、雨が降り続き、高い山も見えなくなり、地は水で覆われたと記録されています。その水は150日間引かなかったのです。そして水が引き始めた時、箱舟はアララト山の上に止まったのです。(アララト山、黒海の東北5137mトルコ共和国《以前はアルメニア》。国際的な環境保護団体グリーンピースは、2007年6月現在、アララト山腹にノアの方舟の模型を建造中している。)40日経って烏を放ち、幾度も鳩を放って地の乾くのを待ったのでした。やがて水が引き、地は乾いて、ノアの家族は地に降り立ち、祭壇を築いて礼拝をするのでした。(9:20)
そして、神様はノアを祝福して「神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。』」(創9:1−2)また、人の血を流すことを禁じ、人が人の血を流す争いの罪を戒め、その根源的理由は、「人は神にかたどって造られた。」(:7)ことにあると言われるのです。神は「二度と洪水で裁きを行うようなことはしない」とノアに約束されるのです。そして、約束のしるしとして、「空に虹をおく」と言われました。虹を見る時、洪水を思い出し、神様の祝福の約束に希望を持つことを勧めておられるのです。
 第一に、虹の約束は、ノアの無垢の信仰への神様の応答であるのです。それは、「好意を得た」正に、「神様の恵み」によって、よしとされた証しであるのです。どのような時にも、「幼子のような信仰」こそ、主イエスが言われた天国的な信仰であるのです。(マタイ18:3)神様を畏れ、敬い、従順に従う人に、神様の恵みを明らかにし、道を開かれるのです。
 第二に、ノアの箱舟の建造は、多くの人々には「愚かな」ことであった。信じられない愚行に見えた。未来に到来する試練、裁きの修練を、現実の生活の中でどのように語られても、自分の理性と知識、経験の中で信じがたいことであったのです。神様を信じることなくして神の国、天国の実在は架空のものになるのです。見えるもの、理性で理解するもの、知性で考える世界は有限です。見えないが実在する心の世界、霊性の世界こそ、見えるものを動かし、生かす命であるのです。神様は見えない存在ですが、見える存在と命の根源であるのです。その命こそ、神様の愛です。愛は見えません。しかし、愛なくして人は存在しえないのです。生きていけないのです。その愛が、自分を愛するだけにとどまる時に、罪悪となり、欲望の奴隷となります。人は与える事によって真実の愛、神の愛を知り、それが現実の力、命となって人を生かし、希望を与えるのです。ノアはこの世の愚かさの中にあっても神様のお言葉を愛し、従い、破壊と混乱から救われたのです。イエス様は、全世界の救いのために、十字架に犠牲となって、神様の究極的な愛を示されたのです。「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(Tヨハネ2:2)正に、イエス様の十字架の御言葉を理解しない人にとっては、愚かとあります。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Tコリント1:8)救われるものにとっては神の力なのです。
 第三に、再び、洪水の裁きを受けないという約束のしるしとしての、「虹」を見るたびに、神の祝福を思い出すことを勧められているのです。その約束の第一は、「すべての被造物をあなたの手に委ねる」であり、(創9:2)、かつてアダムとエバに約束された信頼の回復です。(創1:28)ひとたび人に委ねた被造物が、無残にも崩壊する現実に、神様はノアにその回復を委ねられたのです。今は、主イエス様の恵みによって、ノアの嗣業を完全なものとして明らかにして下さっています。第二に、「虹」は救いの希望、「世の終わりまであなたがたと共にいる」(マタイ28:20)というメセージの確証であると言えます。神様の約束を信じ抜く時、そこに天国の希望が現実となるのです。第三に、「虹」こそ、祝福の平和を約束するしるしであると言えます。神様への信仰がある限り、キリストの和解と真理は平和の岩であるのです。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(エフェソ2:14−18)


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