阪神チャペルセンター
礼拝メッセージ
 
2014年3月9日
「闇に輝くキリストのひかり」
ヨハネによる福音書12章44-50節

ヨハネによる福音書12章44-50節
 日ごろ何気なく過ごしているが、停電になると生活のすべてが止まってしまいます。先日の大雪で孤立地帯となった関東の山間部では、停電で4日間ぐらい生活に困ったというニュースがあった。幸いにして灯油の備蓄と、プロパンガスがあるために、なんとか暖をとり、調理することができたというのです。しかし、明りにはローソクが必要で、備蓄がきれて大変であったそうです。暗闇の中では生活できないのです。闇は人の行動を不可能にします。字も読めず、すべての行動ができなくなるのです。
 闇は暗黒であって、悪を象徴し、暗黒街、暗黒の世界などという表現は、法を無視する裏社会を言います。また、闇取引とは、法で禁じている取引を言います。闇は犯罪と暴力、混乱と破壊を意味するのです。イエス様は、「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(ヨハネ12:35,36)と言われました。闇は「破壊」「混乱」「失望」「絶望」「不安」「悲しみ」「落胆」を意味するのです。しかし、光は「安心」「平和」「希望」「解決」「勇気」「交流」「救い」の源を意味します。
 イエス様は、ヨハネによる福音書12章27節以降で、御自分の使命について語り、表面的に律法を守ることだけの偽善性を指摘し、その暗黒性の限界を示され、現実の心の闇を自覚して、人を救う真実の光としてのイエス様を信じなさい、「光を信じなさい」と言われるのです。言換えれば、光こそ、神様の愛であり、闇の中にある人々は、罪を神様の憐れみと恵みによって反省し、徹底的に悔い改めて光を見出し、破滅的な闇の中から希望と平安、勇気と力を回復していただいて、「光の子」となるように勧められるのです。繰り返しイエス様は言われます、「光の内に歩みなさい。…光の子となるために光のあるうちに、光(私、イエス・キリスト)を信じなさい。」と言われるのです。42節には、会堂の議員の中にもイエス様を信じる者が多かったが、ファリサイ派をはばかり、会堂から追放さるのを恐れて、言い現わさなかったとあります。そして神様の誉れよりも、人間の誉れを好んだというのです。47節で、イエス様は改めて「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても,わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うためにきたからである。」と優柔不断の人々へその心を語っておられるのです。
 ヨハネの福音書12章の最後の節からは、いよいよイエス様の受難のときが近づき、13章から17章は弟子たちに最後の教えを教えられる、十字架直前の重要な個所です。
 第一に、イエス様が語られる「光」、闇の中にある人々の解放を聞きながら、相変わらずこの世の付き合いや保身のためや、律法主義の主流をなすファリサイ派の人々への恐れから、信じていながら優柔不断に実際に行動に表せない人々の迷い、闇の中に留まる彼らを、イエス様は悲しく思い、「わたしは彼らを裁かない」と言われながらも、再度警告されてるのです。「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。」(ヨハネ12:48,49)現実において、様々な試練の中で、又、色々な思い煩いで主イエス様の言葉を受け入れない人がいるのです。御言葉を伝えていても、なかなか受け入れないし、受け入れようとしないのです。イエス様は決して裁かないと言われます。裁くのは、やがてその時が来る時、その闇の罪は自分を覆うと言うのです。闇にとどまる時、闇がその人を裁きに落すということです。
この悲しい事実に目を覚まさなければなりません。
 第二に、イエス様ははっきりと言われます。「父の命令は永遠の命である」イエス様の「光」の真理を受け入れないとき、やがて裁きの時、終わりの時が来ると言うのでなく、神様の「命令」は、「永遠の命」に生きよということです。闇の深刻な悲劇性に目覚め、「光」に生きる。永遠の命に生きることに心を開くようにというのです。永遠の命はこの世の終わりの時のものではないのです。「永遠の生活」を生きることを指しているのです。「命」は「生活」なのです。正に、「光の生活」、神様の栄光に生きることに尽きるのです。栄光は神の喜びです。神様に喜ばれる、満足される生活をいいます。先述しているように、12章の御言葉以下、13章から17章にその永遠の命について語られています。13章では、洗足によって、愛による謙遜を実際を通して教えられ、34節に「あなたがたに新しい『掟』を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(13;34,35)と言われている。ここで「掟」とあるが、明らかに12章の「『命令』は永遠の命」と言われていることと符合するのです。13章34節の「命令」と、13章34節の「掟」(口語訳「いましめ」)は、原文ではエントレー(έντολή)
なのです。永遠の命とは、「わたしが愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(:34)であり、「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(Ⅰヨハネ4:12)わたしたちが愛し合うなら、「神様が留まって下さる」のです。正に、神様が留まるところこそが神の国、永遠の国、永遠の生活にほかならないのです。「命令」こそ「生活」であるのです。今、現在、ここでイエス様の示された神の愛に生きる事こそ、永遠の命、生活であるのです。終わりの裁きの日の問題はすでに解決されているのです。ハレルヤ、感謝!!。
 第三に、ヨハネの手紙第一4章12節を引用しましたが、「いまだかって神を見た者はいません」とあります。しかし、イエス様は、「イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」と言われています。(ヨハネ12:44,45)。確かに父なる神様は見た者はいない。イエス様が言われる「わたしを遣わされたかた」とは父なる神様です。14章でフィリポに言われています。「わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。…わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。」(20:9-11)イエス様を見ることは、父なる神様を見ることを告げられているのです。「神様は愛である」という、この愛を御子イエス・キリストにおいて現実に表された。そこに神様の愛を見ることが出来る。「いまだ,かつて神様を見た事がない」、しかし、イエス様は、「わたしを見た者は父なる神様を見たのである」と宣言されている。イエスを「神の御子と信じる信仰」(Ⅰヨハネ5:5)、その信仰が、父なる神をイエス様に「見る」ことが出来る視力として働き、神様の実在を経験することになるのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命《生活》を得るためである。」
                        (ヨハネ:16)
「神の言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」
(ヨハネ1:4,5口語訳)
「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」
(Ⅰヨハネ5:4,5)

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