阪神チャペルセンター
礼拝メッセージ
 
2014年3月16日
「人はキリストの言葉で生きる」
ヨハネによる福音書14章1-14節

 今日の科学の進歩は計り知れない便利な生活を出現させました。その一つに自動車のナビゲーター(道案内)があります。少し前、ナビゲーターが壊れて道案内をしなくなりました。目的地の住所や電話番号をセットすればそこまで誘導しくれるのです。地図を見ながら運転していた昔に逆戻りして当惑していると、早速、家内が2万円そこそこでポータブルナビをセットしてきたのでびっくりしました。今の車は13、4年前に買ったので、ナビは40万円もしてびっくりしたのです。それが今や2万円そこそこで買えるのです。丁寧な道案内で、交通違反取り締まりの個所とか、ルートから外れたとか、兎に角、細やかに丁寧に音声と表示で案内してくれるのです。道に迷うことは、厄介であり、不安になります。ナビを使い始めた時は、久しぶりに訪れる所などで、ナビが示してくれる道を自分ではそうではないと思い、かえって迷ってしまうこともありました。ナビを信じないで迷うことがありました。人は生きる道を見失い、どうしていいのか分らなくなる時、不安になり、悩むことになります。
人生には生まれるという始めと、死という終わりがあり、人生を旅にたとえたりします。人それぞれに人生の旅路がありますが、その終わりは間違いなく死であるのです。その終わりはひとしく空しく、儚いものです。どうしようもないと諦めるか、死後の世界を思い、この世とあの世を空想して、自己憐憫に陥り、慰めを求めるようになります。しかし、イエス様は「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25,26)と言われました。不思議な言葉です。イエス様を信じる人は死ぬことはないと言われるのです。復活の命は永遠の命であるのです。永遠は不変であるのです。終わりもなく、始めもないのです。生死は有限をあらわします。
創出と消滅の連続で変化し続けます。人の営みは生きることにあります。生きることは死ぬ事からの防御であるのです。働く事、病気を癒やす事、助け合う事、人の営みは死からの解放を願い、努力する事であるのです。しかし、人は、例外なく死を迎えます。イエス様の福音は死からの勝利です。使徒パウロは「私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。」(Uテモテ1:10)と記しました。
 ヨハネによる福音書13章では、イエス様は最後の別れの食卓を囲みながら弟子達の足を洗い、互いに愛し合い、仕える事、謙虚である事を教えられました。人は愛し合う事によって神様の御心を表わす事を示され、この事こそが神様の「命令」であり、この命令こそ「永遠の命」であると教えられたのです。この命が神様の「いましめ」「掟である」と言われているのです。言換えればこの「命令」「掟」こそ、日々の生活である事を示されています。そして、悲しいかな、その御心を理解せずに、イエス様を引き渡すユダの裏切りを指摘されます。13章の最後でペテロがイエス様に「どこへ行かれるのですか。」と尋ねます。しかし、イエス様はペテロが後で従って来るであろうが、自分を裏切ってしまうということを告げられるのです。ペトロはそのような事は絶対ないと思いつつ不安になるのです。
イエス様は、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」(ヨハネ14:1)と言われるのです。ペテロはイエス様に従いながらも不安に思い、永遠の命をよく理解できないでいたのです。そして、依然としてイエス様がイスラエルをローマ帝国の支配から解放して、世界の覇権を握り、神の国を建てられるという事を夢想していて、その成り行きに心を奪われていたのです。そればかりでなく、ファリサイ派の人々の律法を守って義とされ、天国が約束され、永遠の命に導かれるという教えにこだわっていたのです。このようなペテロの、心ではイエス様に従おうとしながら、裏切り、知らないと否定してしまう事を、イエス様は予見されて、「心を騒がせるな」と諫(いさ)め、「あなたがたのために場所を用意しに行く、用意したら迎えに来る」(:3)と言われるのでした。
そして、トマスは「どこへ行かれるのですか。どうして、その道を知ることが出来るでしょうか」と言うのです。イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(:6)と言われるのです。この言葉はしばしば、道と真理と命の三つをイエス様が約束されると、並列に説明されることがありますが、ペテロや、トマスの「主よ、どこに行かれるのですか」という問いに対する答えであるとすれば、行かれる「道」こそがその答えであるのです。「どこに行かれるのですか」という問いは、「どの道を行かれるのですか」であるのです。神の御国、永遠の命への道、その教えの道を意味しています。日本でも「道」といえば、茶道、柔道、剣道と言われるように、その流儀を達成するための道筋であることを現わします。使徒パウロも「この道のもの」(使徒9:2,24:14)と言っています。イエス様はご自身が永遠の命に至る「道」であって、「真理と命」が備えられていることを示しておられるのです。
 そこでフィリポが言うのです。「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足します《信じます》。」(:8)当時の常識では、神様を見ることはできないのです。モーセに神様が言われた「私の顔を見ることはできない。」(出33:20)という伝承が受け継がれていたといえます。また、ヨハネの福音書が書かれた1世紀の終わり頃のギリシャの思想でも、「神は見えない」という定説がまかり通っていたといえます。イエス様はここではっきり言われるのです。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか」(:9)と。神は見えないと教えられていた。しかし、イエス様は「わたしを見た者は父なる神を見た」と言われるのです。それだけでなく、イエスさまの言葉と業によって父なる神を知り、見ることが出来ると言われるのです。(:10−11)それは、信仰によって見えないものがイエス様の内に見えるのです。言換えれば「神は、共にいて下さる神である」のです。
 最初の「心を騒がせるな」というお言葉は、「神を信じ」「わたし、イエス様を信じなさい」ということです。「神を信じなさい」(ピステウエンテ)とう言葉は、命令形と共に直接形でも意味をにとれる言葉であるのです。言換えれば「あなたがたは神を信じているのです」だから「心を騒がせず」「わたし《イエス様》を信じなさい」(:1)という意味でもあるのです。
 「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(:2−3)このお言葉は死後の世界、天国に住まう家を備えると多くの人が考えました。確かに、死後の天国の住まいを意味しているのであって、心の平安の支えであり慰めであるのです。しかし、前後をよく読むとイエス様はまったく誰も知らされなかった道、「住まい」言換えれば「新しい生活」を約束されていることが分かります。それは「場所を用意したら、戻ってきて、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうしてわたしのいるところにいることになる。」(:3)この「戻ってきて」と言うのは、再臨のキリストを意味すると考えるのですが、天国に場所があるのであれば備えることはないのであり、ここでイエス様が示されることは、「道」であるのです。その道とは、正に、十字架の贖いの道であり、神様から離れて、生きる道を見失い、猜疑と欲望の渦巻く、憎しみと対決の坩堝(るつぼ)、不安と恐怖がまといつく罪の世界からの解決と救い、解放と平安の「道」が示されるのです。イエス様は言われています。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(:23)イエス様は、イエス様の言葉を信じない人、神に敵対するする人々に憎まれ、うとまれ、嫌しめられ、責められて、神様を厭(いと)い殺す罪を、罪と自覚しない人々に、罪なき方であるのに十字架にかけられ処刑されるという悲しい出来事が起こったのです。しかし、そこに神様の徹底した愛が、忍耐と寛容として人々に示されたのです。確かに、イエス様は「戻ってきてわたしのもとに迎える。こうしてわたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(:3)と約束されるのです。それは正に、永遠の命、神の国、天国が現実の生活の中で実現することを意味しているのです。「父(神様)とわたしはその人のところに行き、一緒に住む。」(:23)そして使徒パウロは「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。」(Tテサロニケ5:10,11)と勧めているのです。
 主が共にいて下さることこそ勝利の鍵です。そこに平安があります。天国は今であり、未来であり永遠であるのです。イエス様を信じることは、神の御国を今に生きることであり、今に天国に生きる人に永遠の天国は約束されているのです。 神様の愛のある所、イエス様の十字架の愛のある所、そこに、どのような試練も困難も解決の道があるのです。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)


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