阪神チャペルセンター
礼拝メッセージ
 
2014年3月23日
「祈りの祝福と平安」
ヨハネによる福音書17章20-23節

 3月に入るとプロ野球のオープン戦が始まります。関西では圧倒的に阪神フアンが多いので、このところの連敗にはいささか心もとない思いで、ファンは今年は勝てるのかと、心が揺れているのではないでしょうか。しかし、タイガースが勝っても負けても球場はいつも満員です。勝負にこだわらないで、負けるから応援に行く、正に、根っからのファンであるようです。チーム・スポーツの一番大きな勝因は、個人の能力と共に、一致したチームプレーにあるとよくいわれます。テームがバラバラでは目的は達成できません。一致というのは家庭であれ、職場であれ、地域社会であれ、どのような所でも共に生きる人々の生活が成り立つ基本的な条件であるのです。
 今日与えられているヨハネ福音書17章20−23節は、イエス様の弟子達との最後の愛餐会での別れの祈りで、又、これは「大祭司の祈り」とも言われ、「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」(17:20)という祈りの言葉が示しているように、やがて弟子たちが世界に伝道してから、弟子に加わる多くの人々への祈りでもあるのです。言換えればキリストの教会の根本的な性質であって、祝福の基礎的な要件であるのです。
第一に、「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」(:22)ここで言う「あなたが下さった栄光」とは、正に、神様の愛を言い表しているのです。父なる神様の、御子イエスへの愛を現わしていると言えます。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように」完全な愛にある素晴らしさ、その輝き、栄光、即ち、神様の愛を弟子たちが語り、宣教の言葉、十字架の出来事によって示された神様の愛という、栄光を与えられているのです。既に、主イエス様は父なる神様と愛において全く一つであり、「わたしが父の内のおり、父がわたしの内にいる」。まったく一つであるように、彼らも一つになることが願いであるのです。しかし、「彼らも一つになるためです。」という言葉は、原語[ギリシャ語]からの訳では、「みんなが一つであり続けるように」というのが適訳であるのです。「一つになる」ということは、未来のことを現わしていることになります。しかし、「一つである」というのはすでに「一つになっている」現在を指していると言えます。その根拠は、イエス様は「永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(:3)と語られました。弟子達はすでに繰り返し、イエス様が誰であるのかを聞かされ、「あなたは神の子メシアである」(マタイ16:16)と告白しているのです。一つでありながら、なお、様々な試みの中で主の御心を充分に理解しないでいたのです。しかし、イエス様は弟子達の心情を理解し、見通しておられたのです。だからこそ、「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハネ16:12−13)と言われているのです。明白な確信となって、正に、身も心も一つとなって主に従う決断は、「聖霊」が臨む時であるのです。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26)約束の聖霊が降る時、イエス様の教えの言葉、そして十字架に架けられ、甦られた主ご自身の御心が何であるのかを理解出来るようにして下さるというのです。そのことは、使徒言行録2章において起こるのです。そこから使徒団の「一致」が生まれ、キリストの教会が生まれることになるのです。
 第二に、イエス様の最後の祈りは、「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」(ヨハネ17:23)です。これはイエス様が完全に父なる神様と一つである、即ち、父なる神様の御心に生き抜かれたことを言っておられるのです。それは神様の愛をうけ、子なる神として生き抜かれたことにあります。愛することは愛している者のためにどのような犠牲をも払うことに尽きます。イエス様は世の人々のその根本的な根、神を忘れた根源的な闇、即ち、罪を解決するために犠牲となって、十字架の道を選び、御苦しみを身代わりとして受けて下さったのです。そこに神様の究極的な愛が現わされているのです。言換えれば人の罪深い迷いと混乱は、神様の悲しみであり苦悩であるのです。神様は愛であるがゆえに人間の苦悩を救うために、自己を犠牲にして、子なる神、イエス様に十字架の苦難の道を行かせ、愛している現実を証しされたのです。「神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させられた。」(Uコリント5:18)のでした。和解は「一致」であり、平和です。「完全な一致」がそこに備えられたのです。その絆こそは主イエス様によって現わされた神様の愛にほかならないのです。神様の愛を受け入れ、神様の愛に生きるところに神様が共におられるのです。「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」(Tヨハネ4:12)これがイエス様の最後の祈りのみ思いであったのです。
 第三に、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(ヨハネ17:21)イエス様によって「一つ」になる。「一致」することは神様と共にいることにほかならないのです。この一致は、イエス様を信じる信仰によって生まれる和解による一致です。そこに希望が生まれます。イエス様を信じることは、その御言葉に生きることです。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(フイリピ2:13口語)イエス様を信じる信仰は絶えず、御言葉による反省と現実からの改変と成長を示されます。「願い」を起こさせる、ビジョンを与えられるのです。イエス様を信じてビジョンがないことは信仰が命を失っていることになります。この世の人々がイエス様の御言葉に生きる人々を受け入れるようになる」というのです。キリストにより完全に私たちが一つになる、「一致」するところに平和、安心、希望、喜び、感謝、賛美、愛の交わりが生まれるのです。人々はこの世にない神の国の感動に魅力を感じるのです。そこに関心が生まれ、人々をひきつけ、そして真の神様を信じるようになるのです。イエス様の最後の祈りはより多くの人々の救いを求める事にほかなりません。
 主の祈られた祈りを日々に新しく思い、御心に生かされ、御心の実現のために祈ろうではありませんか。先ず、一人一人が主を崇め、主を信じ、主に従い、イエス様にあって一つであることを日々新たに祈ろうではありませんか。


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