阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年3月30日
「主イエスの祈りと愛」
マタイによる福音書26章36-46節

 桜がようやく開花しました。長く寒い冬でした。北海道の北見では40センチの雪がまだ降っているようです。今年のイースターは4月20日です。やがて復活祭を迎えることになります。春の季節になり、命が芽吹きます。全く枯れていたように見える枝に満開の桜が咲き、やがて新緑の候を迎えることになります。冬寒く、雪に閉ざされる所では、厳しい生活が続きます。日本の四季は、寒い冬の後には明るく美しい春がやって来ます。そこに希望を見出すことができます。内科医で心理学者であるP.トルニエには「人生の四季」という著書があります。トルニエは、著作をする時にはテーマを身近な人に色々と聞いて決めることにしていました。或る婦人が、「人生の四季」というテーマを聞いて、「そんなテーマについて、先生は本当に講演されるのですか?それはロマンチックな文学の仕事ですわ。…何故って、自然界では毎年毎年同じ季節が繰り返されて、秋と冬の後には必ず、新たに春がやって来ます。ところが人間の「人生の四季」ということになりますと、死でもって終わりを告げる一回限りの発展経過について語ることになりますね。人間の生涯を、冷酷で必然的な自然現象の成り行きと同様なものと考える人間像を描くことなどは、先生の任務ではありません。…先生は、人間の生涯では自然界とは違って、秋においてさえも春が来ることがあるということを信じていらっしゃったはずですから。」これに対してトルニエは、「人間の秋にさえも春が来ることがある。これこそ人間を人間たらしめている由縁なのです。」と言って、80歳を越えている老人が信仰に導かれて「今生まれたばかりのみどり児のような気がする。わたしの人生は今始まったばかりだ!」と言ったことを紹介しているのです。この老人は、「その全生涯は彼の目には全く変貌しました。彼は今や自分の全生涯を真理の光に照らされて見、そして叫ぶのでした。『今、自分が、今生まれたみどりごのような気がする』」と繰り返し告白したのです。
 人生が「死」で終わることは果てしなく虚しいものです。その空しさが、離別と消滅の悲しみとなり、迷いが、諦めとなって成り行きにまかすという孤独な存在が、人の自然な一生であるのです。イエス様は、自ら行くべき道を見通し、十字架にかかられる前夜、ユダの手引きによって捕らわれる前の一時を、エルサレムの東にあるオリーブ山のふもとのゲッセマネの園で祈られるのでした。イエス様は弟子達と一緒に行かれたのでしたが、いつも大切な時にはペテロとヨハネとヤコブを伴い、身近で離れずに「目を覚まして」祈るように言われたのでした。その時、イエス様は悲しみ、もだえ始められ「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れずに目を覚ましていなさい。」と言われ、そして少し離れて行ってうつ伏せになって祈られたのです。
 イエス様が何故、悲しみと苦悩の故に身悶えされたのか。十字架の処刑という罪の道を歩まねばならない。罪なき者がどうして歩まねばならないのかという深い懐疑の苦悩であるのだろうか。イエス様の人としての真実の姿が現わされているのです。イエス様が人になられた完全な神であり、完全な人でありたもうことの姿が、ゲッセマネの祈りの中に示されていることに気付かねばなりません。十字架の道は人の罪の裁きであるのです。その道は、罪なき人、イエス様にとって苦悩と孤独です。誰にも理解されない悲しみ、自分に敵対する人を愛する不条理、限りない深淵の相剋を和解させる苦悩、愛に生きる完全な人間の苦悩こそが、ゲッセマネのイエス様の祈りであったのです。神として「愛に生きよ」と教えられたイエス様、「人、友のために命を捨てるこれよりもおおいなる愛は無し。」と言われた言葉が、いままさに誤解、錯誤の中で、神の愛を拒む人々の罪悪に裁かれる苦悩であるのです。「目を覚まして祈ってほしい」と言われ、祈り終えられると弟子たちは眠っているのでした。「弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。『あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。』」(26:40)自分の近くで学び、従った弟子たちにこの苦悩の時を共にしてほしいと願われたイエス様、人としての交わりの支えは神様の究極的な愛であり、愛することは愛されることによって成ることを教えているのです。言換えれば、愛する者に裏切られる苦悩と悲しさがイエス様の祈りにあるのです。
 「父よ、できることでしたら、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかし、わたしの願い通りでなく、御心のままに。」(:39)杯とは十字架の道であり、その道を避けて下さいと言う願いであるのです。悲しく辛い、父の犠牲となる子の叫びであるのです。その神様の痛みこそ、人を癒やし、目を開かせ、罪を悔い改めさせる十字架の道であるのです。主イエスは言われます「御心が成るように」、完全な神としてのイエスの側面が証しされるのです。人としての理解しがたい十字架の道であるけれども、イエス様が神であり、神の愛が何であるかを証しされているのです。
 イエス様は愛の証しのために、自己を犠牲にすることを苦しまれたのではないのです。罪なき自分が、罪あるものとなる苦しみであるのです。死をいとわれた苦しみではないことを理解しなくてはなりません。神が、罪あるものとなるというあり得ないことの苦しみであるのです。「うつ伏せになる」は原意では崩れ落ちる、崩壊する、死ぬほどなどの意に用いられる言葉です。耐えられない、死を持ってしてもさけたい。罪あることは神でなくなることであるのです。死を恐れる以上に恐ろしいことなのです。それは、永遠の滅び、滅亡を意味するのです。愛の崩壊であるのです。愛の崩壊は、神が神でなくなることを意味するのです。イエス様の苦悩は、父の悲しみであるのです。それにより御子を犠牲にすること以上に人類、一人一人を愛することに徹しておられることが解ります。
「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ロマ5:8)
 イエス様にとって、限りある命の死が、悲しく、恐ろしいのではないのです。イエス様にとって大切なのは限りない、永遠の命です。罪なき御子が罪に定められることは、完全な神であり、完全な人としてのイエス様には「死ぬばかりに悲しいこと」であり、「この杯、不名誉の苦悩からわたしを過ぎ去らせて下さい」という心境であったのです。しかし、主イエス様は「御心のままに」と祈られるのです。十字架の裁きの道、死の道をわたしは参りますと祈られるのです。そこに真実の命、永遠の命への道に生きるイエス様の御心が明白に表されています。
 イエス様はヨハネによる福音書の11章において、ラザロの死からの復活を通して復活の真実の意味と神様の約束をお教えになっています。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」(ヨハネ11:25)
罪赦されて神様との交わりを回復する、即ち、神様に愛されている自分を見出し、神様の愛に生きる喜び、神様を愛することの回復を、イエス様は「御心のなるように」と祈られるのでした。「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:17−18)恵みは愛であり、真理はイエスの言葉、命に至る道であるのです。永遠の命こそ変わることのない、朽ちない、不変の命、それがキリストに表された神の愛であるのです。「神は愛である」(Tヨハネ4:8)
 イエス様がオリーブに樹の繁る園にうつぶせになって祈られたゲッセマネとは、「油を絞る」という意味であるのです。「イエスは苦しみ悶え、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(ルカ22:44)血は命、命を絞るように苦悩の犠牲となって下さったのです。
 弟子たちは主の思いをどれだけ知っていたのでしょうか、主の苦悩の祈りをよそに眠ってしまっているのでした。主の近くにいながら、主の御心を察せずにいる弟子たちに、「誘惑に陥らないように」と注意され、再び「父よ、御心がなるように」と祈られるのでした。そして主が戻って見られると、弟子たちは「熟睡している」のでした。そして主は3度も祈られたのでした。帰ってくると弟子たちは未だ眠っているのでした。
 弟子たちは、約束の聖霊を受けて、初めてゲッセマネの主の御言葉、絞るように祈られた悲しみの意味が解るのです。今、私たちはしっかりと信仰の真意を理解して、ゲッセマネの主イエスの祈りを理解し、目覚めてその恵みと喜びに生かされようではありませんか。

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(Uコリント5:17−21)

 

 ページのトップへ
  
2014年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ