阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年4月6日
「どこまで罪は赦されるか」
ルカによる福音書22章47-53節

 桜が満開になりました。美しい、実に美しい。梅に始まり、桃が咲き、4月は桜、5月はさつきつづじ、6月には紫陽花、谷間のせせらぎにはホタル、日本て、いいなあー!日本が原始的な古代から国が形成されて行く中で聖徳太子の大化の改新の憲法17条は「和を以て貴しと為し、さかふること無きを宗とせよ。」との言葉は律令国家として「和」の尊さが日本の伝統のように伝えられてきました。日本の世界でも不思議な平和を思う国であるように思われます。古代である平安時代(平和時代)で390年もの長い平和の時代があり、戦国時代を経て江戸時代の270年と言う長い戦争のない時代を過ごしたのは驚くべきことであったと言えます。明治の文明開化に魅かれながら西洋列挙との植民地拡大、帝国主義闘争の波にほんろうされながら、悲劇の軍国主義国家に変質し、膨大な国民の命を犠牲にして敗戦を迎えたのです。どのような国も平和で安全を目指さない国はありません。安全を求めて食料や技術を求めて国と国は闘うのです。第二次世界大戦の反省から国際連合が出来、お互いの領土を尊重する国際秩序が出来ながら、依然として民族闘争や領土支配闘争が後を絶ちません。争いと恐怖が世界の闇を覆っていると言えます。又それは一人一人の心を支配する迷いと不安、その恐怖の闇が覆っていることでもあります。
 20日にイースターを迎える前にイエス様が最後の使命としての十字架に道を歩むべく備えるためにゲッセマネで祈られたか先週は学びました。祈り終えると眠り疲れた弟子たちに言われるのです「誘惑に陥らないように起きて祈っていなさい。」と言われるのでした。今日の御言葉ルカの22章47節には「イエスがまだ話しておられると」と記しています。正に、その言葉こそ「誘惑にいらないように」と言う語りかけであったのです。「誘惑」とは惑わせると言うような意味だけでなく「脅す」「苦しめる」「唆す」「挑発する」などの意味が重なることもありますがこのように訳されるのです。
イエス様がまだ話しておられるとそこにどやどやと大勢の人があらわれて十二人の弟子のユダが近ずいて来てイエス様に接吻をしようとして近ずいてきたと言うのです。イエス様は「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われるのです。「誘惑に陥らないように」と話しておられ時でした。押し寄せてきたんはイエス様を逮捕するために祭司長や神殿守衛、長老たちであったのです。彼らは剣や棒を持つ出で立ちであったのです。この成り行きを見て弟子達の一人が「主よ、県出来るつけましょうか」といい、経返事を待つまでもなく大祭司の手下に着るつけて耳を切り落とすのでした。イエス様は直ちにとどめて「止めよ」と言ってその切りつけられた耳を手下の傷跡につけて癒されたのでした。イエス様は言われました「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」(ルカ22:52,53)と。今起きているこの出来事を通して「今はあなたがたの時で、闇が力を振るっている。」と言われることはイエス様が今、正に、歩まれなければならない裁きの道は「闇」に閉ざされた道であった。「あなたがたの時」とは人間が営む世であって満足を求める欲望の闘争の世界であり「時」であることを指しているのです。言換えれば神様の不在であるそれぞれの人間が平和を求めて得られず、平安を求めながら恐怖に生きる現実の空しい繰り返しを「闇の時」と言っているのです。
 理解しがたいユダの行動に「闇」を見通してイエスは言われる「接吻で人の子を裏切るのか」と。ここで言う接吻は、日本の生活習慣の中で男女の愛を現わす行為としての瀬っぷうんと言うより、諸外国での習慣である挨拶のする時、頬を刷り合わす作法を指しているのであるが、それは性別を越えてかわす友情の愛の現れを意味するのです。パウロ書簡では「聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい」(Uコリント13:12、Tテサロニケ5:6)とあり、これはハガイ、聖であって誠実で、清い、真実の気持を言っています。又、ペテロT5章の14節では「愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい」と言っています。接吻が頬をすり合わせることから「口づけ」は適訳ではないよう言われます。ともあれ、エン フイレマテ ハギオス(愛の接吻)という表現は親愛と友愛の情をこめてかわす挨拶であるのです。愛と信頼の交流であるのです。しかし、イエス様はユダが裏切っている、即ち、イエス様が誰であるかを確認してイエス様を逮捕しようとする人々に教えるために接吻をしたのです。愛を告白しながら、裏切ることが出来るでしょうか。むしろユダはイエス様を本当は真実な意味で愛していたのではないかということです。その真実とは自分こそはイエス様が自分たち、即ち、教えられ指導されてきた当時の伝統的なユダヤによる世界制覇の実現を、メシヤとしてイエス様が実現されると信じ切っていたと言えるのです。感の愛を語り、奇跡を行い、人々を癒やすイエス様こそがユダヤ王国の栄光を取り戻す希望であると思っていたとしか言えません。ユダはイエス様の集団の会計を受け持ち、生活を取り仕切っていたのです。そこにこそ仲間の信頼があり、几帳面に管理して精緻な理解力があったと言えるのです。おそらくユダはイエス様の超自然的な力をしてどんなことをも克服されると信じ、敵と渡り合あっても克服されるに違いないと踏んだのです。それでもしてもユダは祭司長にイエス様を引き渡せば報酬をくれるのかと言い、彼らは銀30枚を渡す約束をするのです。そして、確かにそのお金で土地を買ったことは使徒言行録1章18節記録しています。その地でユダは罪責の念にかられて自殺するのです。ユダに対する残された弟子たちは強烈な批判と叱責の念にかられるのです。おそらく聖書の記者は裏切りユダへの批判的な感情で記録しているのです。しかし、ユダの行為は真に金目当ての強欲でイエス様を裏切ったのなら死ぬ自責の思いはないと言えないでしょうか。彼は接吻、新愛の情を持ってイエス様を売り渡したのです。売りわたし、その苦悩と試練をイエス様は克服されることが出来ると信じて期待したのです。残された使徒たちからすればユダはこの犯した罪を認めて悔い改めれば救いのチャンスはあったのです。主は十字架の上で迫害する人々を目前に「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)に祈られているのです。やがてイエス様は大祭司の家で裁きの場に着かれます。イエス様の予言どおりにペテロはイエス様を知らないと拒絶し、関係ないとまで言い切るのです。恐れです。イエス様が苦難の持ち十字架にかかられ神の国を回復される道が見えないのです。依然としてペテロも他の弟子も、ユダも大祭司や律法学者などのユダヤ王国の地上覇権の夢を同じくしているのです。
言換えれば、真実の神様の御心を通して出なければ真実の神の国、理想の国はあり得ないことをイエス様は教えられたのです。今は「闇の時」迷いの時、不安の時、恐怖に脅かされる「闇」のときであるのです。 
ユダは愛情と信頼を持ってイエス様を裏切った。私達も生活で愛を誓い、一生を共にする夫婦が、いつしか愛情と信頼を心で裏切ってしまう現実を経験するのです。平和と安全を求めながら、自分の満足と欲望のためにたがいにうあらぎる「闇」が支配するのが現実の人の世です。「ユダヤ人もギリシャ人も…世界の全ての人…皆、罪のもとにあるのです。…正しい者はいない。一人もいない。」(ロマ3:9,10)
イエス様を剣や棒を持って逮捕に来た人々をっ見て、イエス様の周りにいた弟子たちは「主よ、剣で切りつけましょうか」と言い終わると、イエス様の言葉を待たずに、その一人は刀で手下の耳を切り落としたのです。それはヨハネ伝ではペテロが切り落としたと記録しています。(ヨハネ18:10)この前後を見てみると、弟子たちはイエス様におたずねして、返事を待つ間もなく自分で刀を抜いて切り落としているのです。ここでありありと分かることは、イエス様のお言葉を待つのでなく、自分の感情、損時の恐怖心が先だって行動しているのです。「恐れ」が自分を行動させているのです。「恐れ」は自分を見失います。「武器は恐怖の証し」であると言われます。恐怖の根源は信頼の喪失です。
「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(Tヨハネ4:18)
心の闇、罪深い闇、不安と恐怖の連鎖する人の心、この世の流れ自然の光輝く美しさの中で、人の世は「闇」に包まれているのです。イエス様が真実の神様の愛を十字架の上で示し、この世の闇を贖って下さることこそが「世の光」として救いの道であるのです。どのような人でも「闇」即ち「罪」を悔い改めるなら赦されない者はない。
「神は光であり、神には闇が全くないということです。わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」(Tヨハネ1:5−10)
 「イエスは言われた。『光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。』」(ヨハネ12:35,36)
 

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