阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年4月13日
「十字架とイエス・キリスト」
ルカによる福音書23章13-43節

 数日前、昼食の後、バッハのマタイ受難曲を聴きながら、マッサージチェアに座っていた。荘厳な前奏と共に合唱が始まり、「罪もない主は十字架に架かり」が繰り返されると、意識が薄れ、眠りに入った。気がつくと召されてイエス様のみもとに行き、甦った自分を意識した。そして現実の自分に気がつくという経験をした。ふと詩編の32編が心に浮かぶのでした。「いかに幸いなことでしょう、背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう、主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。…あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。」(詩32:1-5)
 今週はイースターを迎える前の週で受難週です。イエス様の受難の意味をしっかりと自覚して、その意義をかみしめ、イースターを迎えたいものです。大祭司の庭での裁き、総督ピラトの屋敷での裁き、そして悲しみの道ドロローサを、イエス様は茨の冠をかぶせられ十字架を担いで歩まれ、カルバリー(骸骨の丘)で十字架に釘付けされ、ユダヤの王と嘲笑され、罵りと侮蔑の雑言を浴びせられるのです。
 ゲッセマネの園で、大祭司、長老とその手下の集団に逮捕され、イエス様は見張りをしている者たちに侮辱され、殴られたりされた。目隠しをして、殴ったのは誰か当ててみろと辱め罵った。そして大祭司カヤファの邸宅に連れて行き、そこで最高法院(サンヒドリン)の面々、大祭司、長老、律法学者などが集まり、口々にその罪状を訴えた。特に「イエスがメシヤであるのか」「神の子である」のかを問いただした。イエス様は既に幾度となく「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14:9)と言われているのです。イエス様を信じない者にとってこの事は、神を冒瀆する事であり、神を汚すことは死に値するとしていた。イエス様の顔に唾して、こぶしで殴り付けるのでした。ペテロは中庭に座っていたが、一人の女中が、「あなたもあの人と一緒にいた」と言うと、ペテロはそれを打ち消すのです。そしてそれが三回に及んで鶏が鳴きました。イエス様が予告されたことでした。(ルカ22:34)
 ユダヤは当時、ローマ帝国の植民地であって、死刑のような刑は総督の栽下で為されていたのです。そこで大祭司や長老、律法学者はイエス様を総督ピラトの元に連れて行き、「イエスはメシヤであり王である」と言っていると訴えたえるのです。しかし、総督は、ユダヤの宗教事情の見解では何の罪も認められなかったのです。しかし、ユダヤの指導者たちの激しい告訴で、イエス様がガリラヤの人だと分かって、ガリラヤの支配者であったヘロデ王に送ることにしたのです。ヘロデはイエス様が超自然的な奇跡を行っておられるという噂を知っていて、興味本位で対応していたのです。同行したユダヤの指導者たちは激しく罵り、訴えたが、イエス様は何も答えられませんでした。ヘロデはイエス様を侮辱してピラトに送り帰したのです。ピラトは再び、イエス様を断罪する理由はない、無罪であると宣言し、釈放しようとするが、告訴をしているユダヤ人たちは一斉に「その男を殺せ、バラバを釈放しろ」と叫び、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだのです。ピラトは繰り返し「この人には何の罪も見当たらない。祭りには囚人を一人赦すことになっている」と言うのでした。ユダヤ人の指導者たちと人々は「イエスを十字架に,バラバを釈放しろ」と叫ぶのでした。
群衆はとうとう「この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」(ヨハネ19:12)と言い、ピラトは「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、群衆は「皇帝以外に王はありません。」と言うのでした。
 ピラトは最終的にこれ以上のやり取りをすれば暴動になりかねない、治安が維持できないと、イエス様を十字架に架ける決断をするのでした。明らかにイエス様を裁く裁判は不合理であったのです。罪のない方が何故、十字架にかからなければならないのか。イエス様は自ら十字架を背負わされ、ドロローサ(悲しみの道)を辿られるのです。そして、二人の犯罪人と一緒にゴルゴダの処刑場で主イエス様は両手両足に釘打ちつけられて十字架に架けられた。なお処刑場の兵士たちはイエス様をののしり、本当にメシヤ〈救い主〉ならば自分を救えとあざけるのでした。しかし主は悲しみと苦しみの中で祈られるのでした。その言葉と祈りに注目したいと思います
 その一は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)その二は「『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マルコ15:34)その三、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)三つの言葉を通して十字架のメッセージを学んでみたいと思います。 
 第一に、十字架上で主が語られた「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」という言葉は、主イエス様のメッセージの真髄を現わしていると言えます。ここで「彼ら」とは誰でしょうか。イエス様を罵り、嘲り、侮辱しながら、残酷にも手足に釘を打ちつける処刑に立ち会った人々だけであったのでしょうか。勿論、この不条理な処刑行為に携わった人々だけでなく、イエス様を訴え続けられ、無罪を宣告しながら、また夫婦で理解していながら、政治動向の駆け引きによって保身にはしった総督ピラトのあわれさをも指しているといえます。ユダヤ独立の世界制覇の幻想に取りつかれたメシヤ観に振り回されているユダヤの指導者、大祭司、長老、律法学者のことごとく、そして同じ伝統の幻想に振り回され、イエス様の真意を受け止めえなかった12人の弟子達、イエス様に代わって過ぎ越しの祭りに恩赦されたバラバ、彼は、殺人と暴動による罪でありながら赦される、言換えれば、バラバもまた時のユダヤ独立、解放の担い手であり、ユダヤ国民の英雄でもあったと言われているのです。このように、すべての人は十字架に架かられたイエス様の赦しと愛と平和の原理を全く知らず、理解できずに御子イエス様を十字架に付けたのです。言換えればすべての人間がイエス様を死に追いやったのでした。然し、イエス様は「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈られるのです。ですからやがて聖霊を受けて真実のイエス様の御心に到達したヨハネは、「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(Ⅰヨハネ2:2)と告白しているのです。イエス様は、十字架によって誰ひとり理解できなかった神様の愛を証しされたのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世[世界]を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
 その二、「『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マルコ15:34)このイエス様の言葉に多くの人がイエス様の人間性を認めると共に、反面、イエス様が神であると言いうるのかという疑問をもった人もあります。確かに「わたしをお見捨てになったのか」という言葉は、難解です。父なる神が愛であるがゆえに、愛する者のために、現わさなければならない愛、それは十字架の苦悩と矛盾、不合理を越えて、犠牲を表わす愛であるのです。子なる神は父なる神の御心の深さを問うているのです。神様は愛である。真実の愛とは、如何なる犠牲を払っても、愛するという証しを立ててこそ、神様は真実の神様であるのです。子なる神の苦悩の言葉であると共に、父なる神様の苦悩でもあるのです。この苦悩の十字架の言葉がなければ、世界の真実の平和と幸せの現実はありません。そこに神の愛に基づく神の国、永遠の命が約束されるのです。
 その三、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)最後の言葉です。子なる神としてのイエス様が、完全な神であられる言葉であるのです。イエス様は生前幾度となく、「父の御心がなるように」と告白されました。どのような時も父なる神の御心を貫かれ「私を見た人は父を見たのです」と宣言されてきたことからも、イエス様は父なる神様を生きられた方であるのです。神でありながら最後の十字架上で、孤独であることを示し、その孤独を回復することの出来る贖罪をもって愛を現わされたのです。「わたしの霊を御手に委ねる」ことこそ、世界の平和と和解の道を完成された言葉であったのです。主の苦しみをこの受難週を通して深く心に留め、信仰の成長の礎にしようではありませんか。

 

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