阪神チャペルセンター
  復活祭メッセージ
 
2014年4月20日
「復活の希望と永遠の安らぎ」
 ルカによる福音書23章50節―24章12節 

 毎年、ヘンデルのオラトリオ、「よろこべや、たたえよや」(:Tochter Zion, freue dich)のメロディーが、春の選抜の優勝を祝って聞こえる頃、今年も復活祭が近づいたことを思うようになります。教会ではこの曲は、復活祭の賛美歌として親しみをもって歌われます。この曲は本来、ヘンデルのオラトリオ、ユダス・マカベウスの凱旋の行進曲「見よ勇者は帰る」で、これを賛美歌に編曲して、イエスのエルサレム入場を迎えるユダヤの民衆の言葉をつけた、19世紀の作品であるようです。そして現在聖歌168番「いざ人よ誉めまつれ」として、主の復活を讃える賛美として歌われるのです。先週の日曜日は、「棕櫚の日曜日」といい、イエス様がエルサレムにロバに乗って入城され、群衆がイエス様を来たるべき王として歓迎する出来事の起ったことを記念する日であったのです。人々は、棕櫚の葉を振りかざして「ダビデの子にホザナ、ホザナ」と叫びながらイエス様を迎えたのでした。そして、イエス様は日々神殿の庭で人々を教え、木曜日の夜は弟子達と共に食事をして、最後
の教えをされ、その後、ゲッセマネの園で祈り、敵対する人々に捕らわれて、大祭司の庭で衆議所の議員による裁判に臨まれたのです。彼らはイエス様をピラトの法廷に立たせ、理不尽な裁きの結果、イエス様をゴルゴダの処刑の丘で十字架に架けるのでした。
 然し、イエスは、繰り返し弟子たちに、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25、26)と言われたのでした。しかし、誰ひとりこのお言葉を信じることはできないのでした。イエス様の言葉を聴いていたマルタはイエス様を、神様が約束された救い主メシヤであると信じていると言ったものの、死からの甦りを理解していなかったのです。
 イエス様が十字架で最期を遂げられると、イエス様を罵り、極めつけの侮辱で告訴したユダヤの議員の中にも、イエス様を深く尊敬し、慕っていた人ヨセフがいました。彼は同僚の議員の決議や行動に同意しなかったのでした。この人は総督ピラトのもとに行き、イエス様の遺体の引き取りを申し出て、十字架から下ろし、麻布に包み、新しい岩を掘った墓に納めたのです。安息日が始まろうとしていました。安息日は金曜日の日没から土曜日の日没までです。イエス様を慕っていた婦人たち、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、ヤコブの母と一緒の他の婦人たちは、このことを見届けて、安息日を休み、週の始め、即ち、日曜日の朝に、準備していた香料と香油をもってイエス様の墓に行ったのです。行って見ると墓の入り口をふさいでいた石が脇に転がしてあり、中に入ってもイエス様の遺体は見当たらなかったのです。途方に暮れていると、輝く衣をまとった二人の人、おそらく天使が立っていて、婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言うのです「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている』と言われたではないか。」(ルカ24:5−7)そこで婦人たちはイエス様の言葉を思い出したのです。そして急いで弟子たちに報告しました。然し、弟子達は婦人たちの言葉がたわごとに聞こえて誰一人として信じなかったのです。そしてペテロが確かめるために墓に走って見に行くと、そこにはイエス様の姿が見えなかったのです。弟子たちはイエス様の復活を理解していなかったのでした。(ヨハネ20:9)
その後、彼らが食事をしている時、イエス様が現れました。二度目に現れた時,前回そこにおらず、信じなかった疑い深いトマスに、傷ついた手足を見せてイエス様は「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。…わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:27)と言われるのでした。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)このお言葉が示しているように、イエス様を信じる信仰の目的は「永遠の命に生きる」ことにあるのです。時間は始めがあり、終わりがあって有限であるのです。形あるものは変化し、失せるのです。人は時と共に老いて死を迎えます。人は、動物であっても万物の霊長であって、生きることの喜びを見出し、その意味を求めるものです。何故、喜び、苦しむのか。生甲斐を求めながら人として生きること、そして何故働くのか、何故病気になるのか考えます。そして終わりを死でむかえるのです。死を悲しむのです。死が消滅、絶望、悲嘆、虚無で終わることを実感する時、人は例外なく悲しみます。イエス様は、「わたしは復活であり、命である。」と言われます。復活とは永遠の命に生きることです。永遠は始めもなく、終わりもないのです。変わらない、朽ちない命であるのです。イエス様を信じることは永遠の命を信じることであるのです。
永遠の命こそは神様の命です。神様を拒み、見失い、関係が絶たれるところには、人の欲望を中心にした自己保存の闘争が始まるのです。それが神様を忘れた現実の人類の悲しい争いの歴史であると言えます。永遠の命に生きることは、神様の命に生きることであり、神様の命とは変わることなく人が平和に生きることです。使徒パウロは、「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(コロサイ1:20)と言っています。永遠の命に生きることこそ「真実の平和」に生きることになるのです。平和の道、神様との和解、神様の御心に生きる道であるのです。それこそイエス様が十字架で示されたことであり、神を拒み、自分を見失い、争いあうという、罪の根源、その罪の裁きの代償となって下さったのです。神様を信じようとしない悲しみと混乱の罪。その罪を贖うために代償としてイエス様が十字架に架かり死んで下さったのです。ですからどのような罪を犯していても、罪を悲しみ、自覚し、告白する時にその人は赦されるのです。罪を自覚し、心の目からうろこが落ちる時に、神様の愛に生きる永遠の命を生きるようになるのです。永遠の命とは、神と共に生きることにほかならないのです。神様と共に生きるということは、神様の愛、すなわちイエス様が十字架で示された犠牲の愛によって互いに生きることであり、その命こそが永遠の命であるのです。
 イエス様の復活の命は、現実の死を克服した命です。体は死をもって終わり、変化して地に帰ります。然し、主イエスは「わたしは復活であり命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。」と言われました。人には体があり霊があります。肉体は形であるのです。人の霊の命は、失われるか、生きるかです。失われるのが死であるのです。生きることこそ永遠の命です。
自然界の現象でもトンボは水で幼虫として育ち、成虫になると孵化して羽が出て大空を飛ぶようになるのです。この神秘、この不思議をどのように科学で説明しても、そのありのままを受け入れる事しかできません。神様を信じ、永遠の命に生きることにより、神様は新しい人として復活することを約束され、それが空手形でなく現実に復活があることを実証されたのがイエス様の復活の出来事であるのです。これは信じることによって現実となるのです。弟子達もイエス様が現実にお甦りになって後、幾たびもその姿に接して、初めて復活の現実が確信出来たのでした。使徒パウロは、「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。…つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(Tコリント15:13−15,22)と記し、そして、再び、新しく甦る時をこのように言っているのです。「つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」(Tコリント15:44)主イエス様は再びお出でになり、全世界の終わりの時が来ることを告げられています。(使徒1:11)「主御自身が天から降りて来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。」(Tテサロニケ4:16−18)
 復活の信仰によって真実の神の家族として迎えられるのです。そして永遠の命に生きる喜びを感謝し、神様を礼拝する度に既に天に送った家族を記念し、復活の信仰の時を待ち望み、永遠の命を今に生きる喜びと感謝を日日新たにしなければなりません。そして主にある家族はいつも信仰をもって記念し、祈り、残してくれた家族の信仰の遺産と思い出を通して、主イエス様を信じる信仰の絆を大切にしようではありませんか。主の復活を心よりほめたたえます。
心よりイ―スタをお祝い致します。

 

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