阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年4月27日
「今、共に歩まれるイエス様」
ルカによる福音24章13-35節

 昨日は、三浦綾子定例読書会があって、随筆集の「泉への招待」を読みました。そのエッセイの中に、「初めての祈り」という項目があって、三浦綾子さんに多く寄せられる手紙の中に、あるクリスチャンの母親からの手紙があったのです。それは息子が道を踏み外して暴力団とかかわり、刑務所にいるので神様を信じるように祈ってほしいというものでした。その3ヶ月後に彼が信仰に入ったと言う知らせが届きました。やがてその彼から綾子さんのところに手紙が来たというのです。それは7年前の出来事でした。強盗殺人で死刑が確定している囚人が、「確定した!死刑だ。死ぬのは嫌だ。」と叫んだというのです。そうすると、もう一人のKという人が、「祈りを教えてくれ」と言って、3人で祈ったのです。(Kは殺人未遂)。苦し紛れに母親の祈りをまねしたまででしたが、死刑囚は涙を流してこっくりとうなずいたのです。息子は未だ入信はしていない暴力団員であったのです。にもかかわらず、死刑確定におびえている囚友を見て思わず、「イエス様が天にいるから怖くはない」という慰めの言葉を言ったのでした。彼は信じていないから祈れない、てれ臭くて祈れないとか言わずに、一心に母の祈りを思い出して祈ったのです。信じているか否かはここでは問題でなく、ひたすら信じて祈る母の祈りを思い出して、イエス様に平安を祈るのでした。
 おそらくこの囚友は、死刑という量刑の重さに心が崩れ、深く反省して、心の平安を求めていたと言えます。イエス様が共にいて下さる。天国に受け入れられる心の安らぎを見いだしたのです。イエス様が共にいて下さる事を確信する信仰の尊さを知ることが出来ます。
 イエス様は、弟子たちに最後に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)と言われています。ヘブル書7章25節には「この方(キリスト)は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」とあります。
 今朝の聖書の箇所は、エマオへの途上でイエス様と出会う二人の旅人の記録です。イエス様の十字架の出来事は、エルサレム中に衝撃を与えました。イエス様の約束されている永遠の命、神の国は、ユダヤの人々の思いとは違い、彼らは到底イエス様を理解できなかったのです。愛と赦しの神様の恵みを見出せなかったのです。反対に罪を告発する義を求め、対決と裁き、断罪と憎しみにより、イエス様を十字架に追いやることになったのでした。ましてや、「甦り」を約束する永遠の命を信じ、理解しようとする人はいなかったのです。イエス様の訴訟事件は、エルサレムの町を騒乱状態にしてしまうような状態で、理不尽な十字架刑で終わりました。イエス様を尊敬し、慕っていた人々、弟子たちでさえイエス様の真意が理解できないで不安に陥っていたのです。週の初めになってイエス様が復活されて墓にはおられないという噂が広まるのでしたが、そのようなことはなかなか信じられることではなかったのです。確かにイエス様が復活するとは聞いていたのですが、そのようなことが起こるとは思いもしなかったのです。それぞれが家から離れ、仕事からも離れてイエス様に従っていた人達もどうしてよいのやら分からなくなって、それぞれ家路に向かおうとするのでした。この二人の旅人も失望と落胆、不安をもちながら、エルサレムで起こった出来事を回想しながらどうしてあのようなことになったのか話しながら歩いていたのです。そこへイエス様が近づいてきて、一緒に歩み始められたのです。この二人の旅人は、眼が遮られてそれがイエス様だと分からなかったのです。そしてイエス様は二人が話し合っていることは、どのようなことかを尋ねられたので、二人は暗い顔をしながら、クレオパという旅人がエルサレムで起こったことを話し出したのです。イエス様は偉大なみ業を行い、神の御心を話されました。この方こそイスラエルを解放されると多くの人が望んだのですが、祭司長や議員たちが死刑にするために十字架につけたのです。死なれて3日目になりますが、仲間の婦人たちが墓に行ってみると、そこには遺体がないのです。そして天使たちが、「イエスは生きておられる」と言うので、他の者が行ってみると、イエス様はおられないのです。何がどうなっているのか分からないのです、と言うのでした。イエス様は、戸惑っている二人に、キリストはこのような苦しみを受けて栄光に入ると聖書に記しているではないか、と言って、モーセや預言者を始め聖書全体がご自分について書いてあることを説明されたのです。夕暮れになりイエス様は先に行かれようとしたのですが、二人は一緒に泊って頂くように願い、共に食事をするのです。そしてイエス様がパンを取り、賛美してパンを渡される時、二人は「眼が開け」イエス様だと分かったのでした。イエス様であることが分かったと共に、イエス様の姿が見えなくなったというのです。
二人は、「道で、聖書を話して下さった時、心が燃えたではないか。」と言うのでした。そしてエルサレムへ引き返し、弟子たちが復活されたイエス様がペテロに現れたというのを聞き、エマオへの途上でイエス様に出会ったことを話したのでした。
 先ず、第一に、神様は様々な出来事を通してメシア、救い主についてイスラエルに伝えてきたのです。アブラハムの選び、モーセによるエジプトでの苦難からの解放、ダビデによる約束の王国の確立を通して、多くの預言者を送って神が苦しみを受け、人々を救うために犠牲を払われることを告げられてきたのです。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:4,5)そのような預言が与えられているのに、十字架に架けられたイエス様の御苦しみが全く分からないのです。「あの方にイスラエルを解放して下さる望み」をかけていたのです。それはこの世的な権力による支配を意味していたのです。
 「眼が遮られていて」とあるように、この二人の旅人は、目前にイエス様を見ながらイエス様と分からないのです。「眼が遮られて」という言葉はクラテイオー(κρατέω)という言葉で、「捕える」「支配する」「保持する」などの意味があり、ここでは受け身に使われています。「眼が遮られて」、何かの障害物で遮るというよりは、「金縛りにあって」というようにも意味が取れるのです。心と体、全人格が身動きとれなくなると言うのです。神様が長い歴史を通してモーセを始め、預言者から伝えられてきた救い主メシアは、この世的な闘争と力の支配による王として伝承し、そのように思われ、期待されるようになって、民が苦難を通して待ち望むものであるという思いに支配されていたのです。神様の御心から遠く離れた神の無い、悲惨な現実に永遠の破壊、地獄の現実を理解しようとしないのでした。正に、それは罪悪の帰結であったのです。身近にいて下さるイエス様がおられるのに、この世的な思いに「金縛り」になって眼が遮られて何も分からないのです。
 イエス様が見えるようになった時に、イエス様の姿はそこにはなかったことは、真実に十字架と復活の出来事が、正に、神様の国が見える形でなく心の奥深く根付くことによるのです。そこに愛と赦しがあり、真実の和解と平和、神の国が闇の世界、罪の世界の中の希望となり、復活の時、栄光の神の国が実現されるのです。罪の闇に覆われている現実の中で復活の希望に生かされる時、「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ5:2-5)というみ言葉が心に迫るのです。
 第二に、二人の旅人はイエス様が聖書について話された時、「心は燃えたではないか」と言っています。聖書を読み、聖書を知っていても、その文字の真意を受け取ることがない時には、「このように書いてある」で終ります。文字は意味があって生きるのです。生きる命であるのです。聖書の言葉は神の言葉です。神の言葉は命であり、人を生かす命、力であるのです。イエス様は、「聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(ルカ24:27)とあります。聖書はイエス・キリストの十字架と復活を通して現わされた神様の愛によって、その真意が明らかにされるのです。だからこそ「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」(ヘブル12:2)という言葉が命となるのです。

 

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