阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年5月4日
「人は言葉で生きる」
ヨハネによる福音書21章1―14節

 聖書は「人は神に似せて造られた」と教えています。(創世記1:27)そして、「神は愛である」(Tヨハネ4:8)であることから、正に「人は愛なくしていきて行くことはできない」存在です。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(Tヨハネ4:12)とあります。人が人として生きることは、愛しあって生きることです。言換えれば、人は愛し合って生きる時に人になると言えます。人とは、二人が支え合って、立つ、生きる存在といえるのです。「愛は、すべてを完全に(人を)結ぶ帯です。」(コロサイ3:14口語)。結ぶ帯が「愛」なのです。愛は、愛の意味があってこそ愛として生きるもの、具体的な存在となります。言葉によってその意味が伝わります。言葉がない時に愛は伝えようがありません。愛と言葉が行為となって実在することになります。「愛は人を完全に結ぶ帯」は、「絆」です。完全な絆とは、「一致」にほかなりません。人が一つ心になる時、そこに真実の平和が生まれます。平和は平安であり、安心であるのです。
 「いまだかって神を見た者はいません。」と言われるように、「見えない神が、見える人になる」ことこそ奇跡です。主イエスは、「 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方(神)を見るのである。」(ヨハネ12:45)「わたしを見た者は父〈神〉を見たものだ」(14:9)と言われているのです。イエス様の生涯を通して神様の愛は示されており、十字架において、全ての人の罪を贖うために苦しみを受けて死なれたのです。愛が言葉で終わることなく、その言葉、「愛」が具体的に「赦す」愛として示されたのです。神様は見えないが、神の真実の愛がイエス様によって見える形で現わされたのでした。愛は、赦し合うことによって生きる、実在となるのです。そして、時と共に過ぎ去り行く現実の生活は、復活の希望、永遠の命に生かされ、主イエスの再臨を待ち望み、新しい世界の創造を約束されて、希望と平安に変えられるのです。
 人は、生きている限り、生活の中には試練と苦難が起こります。然し、どのような時にもキリストにあって希望をもって歩むことになります。このキリストの希望は欺くことがありません。それは聖霊によって神様の愛が注がれているからです。(ロマ5:4,5)
 イエス様は復活されてから弟子たちの前に幾度となく現れ、親しく話しかけられた。そして食事をしている時、エルサレムに留まり約束の聖霊を待ち望むように言われたのでした。弟子たちは、今後の事を考え、どうしたらよいのか戸惑いながら、それぞれの故郷に帰って行ったようです。ヨハネによる福音書21章では、ペテロとトマス、ナタナエル、ゼベダイの子ヨハネとヤコブのほかに、名前はないのですが二人とあります。ペテロとゼベダイの兄弟は漁師であったのですが、他の人たちはペテロたちについてきたのでしょうか。ペテロが「わたしは漁に行く」と言うと、彼らも「一緒に行こう」と言って、共に舟に乗って漁をしたが、さっぱりとれなかった。イエス様が岸辺に立っておられ、「食べ物(獲物)があるか」と問われるのでした。「ありません」と答えたのですが、彼らはイエス様が誰か分らなかったのです。そこでイエス様が、「舟の右側に網を下ろしてみなさい。獲れるはずだ」と言われたので、網を打ってみると、おびただしい魚が網一杯で、引き上げることが難しかったのです。その時、イエスが愛しておられたあの弟子、おそらくヨハネが「主だ」と言ったのです。ペテロは「主だ」と聞くと、裸同然であったのですが、上着をまとって海へ飛び込んだのです。岸まで百メートルばかりでしたが、泳ぎ始めたのです。そしてほかの弟子たちは、舟を漕いで辿りつきました。岸ではイエス様が火を起こして魚を焼き、パンを用意してあるのでした。イエス様が「今とれた魚を何匹か持って来なさい。」と言われました。ペテロが舟から網を陸に引き揚げると153匹の大きな魚でいっぱいだったが、網は破れていなかった。そしてイエス様は「さあ、朝の食事をしなさい。」と言われるのでした。復活されたイエスを目前にして「あなたはどなたですか。」と尋ねる弟子はいなかったのです。
 第一に、主イエスが死から復活された事実について、それが言葉で語られた時、誰も、現実になるとは思いもよらない、単なる話であるとしか受け取れなかったのです。主が復活の体で弟子たちの前に現れたことについては、少なくとも3回目の出来事としてここで記録されています。然し、実際は、復活された主が様々な場で、色々な人々に現れていることは事実です。使徒パウロは、コリントTの手紙15章に、その出自を記し、月足らずの自分にさえ復活の主はまみえて下さったことを記録しています。ペテロと一緒にガリラヤに帰った弟子たちは、何故、主が復活されたのか、主が現実におられないとしたら、これから何をしてよいのか分からないで困惑し、失望し、戸惑っているのです。彼らは、もとの漁師に戻り、漁をしてみようということになったといえます。漁師でない仲間もその時のうつろな心の状態でペテロに従い、気を紛らわすことであったのです。然し、全く魚が取れないのでした。いよいよ気持ちが落ち込んでいくのです。その明け方、イエス様が呼びかけられたのです。ここでは「食べるもの(魚)があるか」と尋ねられるのです。そして、「舟の右側に網をおろせ」と言われるのでした。3年前、イエス様から「人を漁る人になれ」という召命の言葉を聞いた時にも、一晩中漁をして獲れなかった。然し、イエス様のお言葉に従う時、大漁であった事を思い出したに違いないのです。網が裂けんばかりに獲れた魚を見て、今まさに目前におられるイエス様に気付くのです。主は主の御心を知り得ず、直面する現実に迷う時にも御声、言葉をもって道を切り開いて下さるのです。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
(Tコリント10:13)
 第二、ペテロは主イエス様だと分かると、約百メートル位離れていたのですが、思わず上着をまとって水に飛び込むのです。泳いで岸に向かうのでした。ペテロは裁きの庭で主を否んだ事を回想しながらも、15節以降で「主を愛するか」と三度尋ねられ、それはよくご存じですと答えるのです。牧会者としての受難を見越してその決意を正されるのです。ペテロは本当にイエス様を愛しているのかと問われて悲しくなります。ペテロは、イエス様のみ思いを察しながら、現実の試練の中で揺れ動く気持ちを見せるのです。普通、人は水の中で泳ぐ時、服を脱ぐのです。然し、イエス様の前に裸で出ることをはばかって思わず着たのかもしれません。そこにペテロの率直、一途、ひたすらイエス様を愛する姿を見るのです。どんなにイエス様の心を痛めるようなことがあっても、主の内にありのままで率直に帰ることの恵みを教えられるのです。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)
 第三に、主イエスは、弟子たちのために岸辺で火を起こし、魚を焼き、パンを用意されていた。ずぶ濡れになって岸に辿りついたペテロに、「今とれた魚をもって来なさい」と言われた。誰ひとり「イエス様ですか」と尋ねる者はいなかった。確かに死なれたイエス様が、そこにいて下さる。パンと魚を与えられた。最後の食事を思い出したに違いない。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)ガリラヤの岸辺で食事をしながらこの「勝利」という言葉を思い出し、復活された主が共にいて下さる中で、「今、理解できない。然し、その方、真理の聖霊が来と、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(ヨハネ16:13)時に実現する勝利を確信するようになる。さらに、エルサレムに行って約束のものを待ちなさいと言われる言葉に従い、弟子たちはエルサレムに行って待ったのです。しかし、依然として弟子たちは主に神の国の回復をどのようになさるのかと、自分たちのイスラエル復興を問うのでした。然し、イエス様は「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)と言って、「聖霊」の力こそ「神の国」のなる時であることを告げられて、復活して40日目にオリーブ山から天に帰られるのでした。そして弟子たちは五旬節を迎え、聖霊降臨を経験するのです。そしてペテロを通してイエス様の言葉の意味が明らかにされるのです。イエス様が全世界の罪のために十字架に架かられ(Tヨハネ2:2)、死から復活して永遠の命の証しを示し、再び、神様が新しい創造をされる福音を確信するのです。
 ペテロを始め弟子たちは、ペンテコステ以後地上の様々な罪と苦悩の戦いを越えて、永遠の命、神様の和解、平和と愛の道を伝える使命に生きるのです。やがてローマに福音が伝えられ、皇帝ネロのもとで迫害が起こる時、ペテロはローマから逃れるためアッピア街道を出ようとする時、主イエス様がローマに行こうとされているのに出会い。「主よ、いずこに行きたもうや」(クォ・ヴァディス)と尋ねたところ、「迫害されている人々の所に行く」と言われるのを聴いて、ローマに引き返し、逆さ十字架に吊るされ殉教するのです。見えざる永遠の命、それは愛の証し、神の国の平和こそ現実に幸せを実現する命、力、そして希望であるのです。復活の御心、命と愛に生きる人になりましょう。


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