阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年5月11日
「母の愛と家族の絆」
エフェソの信徒への手紙6章1−4節

 社会が豊かになっても、人それぞれの生活の土台である家庭に問題があり、家族の絆が失われることは悲しいことです。反対に、この世の中に様々な出来事が起こり、試練が押し寄せて来る時にも、最後は家族が支え、助け合うことで、人は幸せを実感でき、生きる希望も湧いてくるものです。便利で豊かな社会になっている現実と共に、それを裏返すように高齢少子化の傾向で、孤独な家族が多くなり、家族の絆が失われ、家族そのものがなくなってきています。昔から「金の切れ目が、縁の切れ目」と言います。縁とは血縁、家族のつながりです。生活を支えるお金、経済が動かなくなる時、家族の関係がなくなると言うのです。家族の絆はお金だけで測ることはできないと言えます。人にはそれぞれ、色々な事情が起こり、追いつめられることもあります。ともあれ家族は互いに助けあい、やがて自立して苦労や、喜びを分かち合うことになるのです。家族は両親を中心にして肉親として結ばれ、それを基本にして法律が様々な繋がりを決めています。しかし、何があってもお互いの心の絆こそが、家族を強く繋げることになります。そして、家族の深い愛情の絆の中心に母という存在があるのです。
 今日は「母の日」です。母の労苦を偲び、その恩に報いる思いをもって感謝の気持ちを表したいと思います。出産から育児、身の回りの世話、しつけ、そして絶えず健康に気を配る愛情は、何をもってしても感謝を現わすことはできません。それは金銭で計算できるものではないのです。赤子は母親の乳で育ちます。然し、赤子の心、人間性の基本は母親の細やかな愛で形成されるのです。細やかな、温かい愛に育てられて、人を愛する心が育つと言われます。愛されない人は、人を愛することが出来ない自己中心的な人になるのです。人を信じることのできない人になるのです。母なくして人は人になることはできないと言えます。そしてそれを支える父の愛情が母を力付け、父母の愛が子供に結ばれることになり、家族の絆は深く、深く、掛け替えのないものとして結ばれるのです。
 使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙に、「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。『父と母を敬いなさい。』これは約束を伴う最初の掟です。『そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる』という約束です。父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」(1:1−4)と書き送っています。「父と母を敬いなさい」これは「約束を伴う最初の掟です」と言っています。この「掟」というのは、モーセが神様から受けた「十戒」を指しています。十戒は、最初の4つは神様の前に守るべき戒めであり、その次にある6つが、人が人として生きるための守るべき戒め、掟が示されています。それは、人が人として幸せに生きるための人の道を示しているのです。その「最初」の掟、即ち、人として第一に守るべきこととして、「父母を敬いなさい」(出20:12)と書かれており、「敬う」ことは「従う」ことなのです。
 儒教で言う「孝行」は、存在の関係の中の支配の仕組みを教えています。聖書は、「主に結ばれている者として」とあります。口語訳では「主にあって」と訳されており、ここでは親子が共に「主に結ばれている」「神様を信じているのです」から、「両親に従いなさい」と言っているのです。神様を信じている人、神様を愛している人は、「両親を愛しなさい」ということです。「主にあって」結ばれている親子であるのです。我々の環境では、子供がクリスチャンであっても、親がクリスチャンでないこともあります。親に様々な問題があったとしても、親である限り、道理にかなわず従えなくても、親としてどこまでも愛し、敬い、いたわることこそ、クリスチャンの親への孝養であるのです。キリストの愛で両親を愛することこそ、クリスチャンの生き方であるのです。「主にあって」とは、親が神を信じていなくても、神様を信じ、イエス様の愛に目覚めて罪赦された者として、生み育ててくれた親を大切にすることと考えられます。自分の存在は、親の存在によって生まれたのです。それを神様の不思議な働き、恵みの導きとして受け止めることが出来るようになるのです。神様の導きによってクリスチャンとして導かれていることは、祈りの人として、両親への孝養をつくす人として召されていることに目覚めるのです。
 母の日に、不思議な家族の姿を神様に示される時、見えざる神様の愛と恵みが見えてくるのです。母を通して今日の自分があることを神様にあって自覚する時に、溢れる「感謝」がそこに湧いてきます。イエス様に出会い、創造主なる神様の恵みを知った時、生きてきたのでなく、生かされてきた自分を発見するのです。生かされている自分は、愛されている自分であることに気付くのです。そこに「感謝」が溢れるのです。神様に愛されていることに気づくことは、神様を信じることにあるのです。
 旧約聖書のルツ記は、家族崩壊の不遇な離別の物語ですが、親子の真実のあり方を教えています。物語はユダのベツレヘムに始まります。士師の時代に飢饉が襲い、エリメレクという人は、妻のナオミと息子二人と共にモアブの野に逃れ住んだのです。異国の地でエリメレクはナオミに先立ち、その地でモアブの女と家庭を持った二人の息子も10年ほどたつと共に先立ってしまうのでした。ようやく10年の歳月で落ち着いてきた生活も、家族を支える息子達を失い、ナオミは途方に暮れるのでした。考えた末、故郷に身を寄せる決心をするのです。そして、二人の嫁に、まだ若いのだから実家に帰って人生を出直しなさいと勧めるのです。嫁のルツとオルパは、この不遇と別れを惜しんで激しく悲しみ泣くのでした。ナオミは再度諄々と、出直すように勧めるのですが、姑の言葉も聞き入れないのです。しかし、とうとうオルパは姑の言葉を受け入れるのですが、弟息子の嫁であったルツは老いた姑の先行きを思うと去りかねるのです。神様を信じ、愛と優しさで守ってくれた年老いた姑を一人にしておくことが出来ないのです。ルツは言います。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」(ルツ1:16,17)嫁と姑という、息子を通して結ばれた親子です。年老い、孤独と不安にある姑をそのままにできないルツの心は、見えない信仰の絆で結ばれているのです。家族には、自分の意志を越えて神様の導きによって支えられている絆がそこにあるのです。見えない信仰の絆で結ばれている姿です。神様の愛が人を本当に結ばせる絆であることを教えていると言えます。その神様の愛に生きる喜び、その愛に結ばれている喜びこそ、感謝となって共に生きる労苦を分かち合えるのです。母親への感謝、神様に結ばれた絆の家族の姿であるのです。
 第一に、感謝こそは老いたる姑と助け合う思いとなり、力となるのです。感謝は喜び、喜びは力です。その感謝の力に支えられて、初めて支え合う忍耐が生まれます。親を労わる思いとなります。ルツはやがてナオミと共に故郷ベツレヘムに帰り、不思議な導きでボアズにめぐり合い、イエス様の祖先となるという祝福をナオミと共に分かち合うようになるのです。祈りのある親子、共に神様に祈る、恵みを、祝福を、喜びあうことになるのです。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(マタイ18:19)この二人とは夫婦であり、親子であるのです。家族の祈りです。祈りのある家族には希望と喜び、感謝があります。
 第二に、ルツは義母ナオミに言います「あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。」(ルツ1:17)「お母さん、わたしは死んでも生きていても一緒です。」神様にあって永遠の命に生きる信仰の生涯は、地上の別れで終わるのではありません。死後に墓を守り、再び、主のご来臨の時まで待ち、再び出会う新しい永遠の御国の再現を待ち望んで家族の絆は続くのです。
 今日の社会現象、豊かさの中に家族が失われ、信仰を見失った社会では、葬儀も形式的になり、おざなりになりつつあるのです。家族と家庭の消滅が現在の社会です。親子の情が失われ、親子の愛が消えている社会であると言われるのです。親が死んでも放置して、その年金で生きる世の中であるのです。幼児虐待の統計が取られ、1990年には1101件であったのです。然し、2008年には、37323件となり、2011年には59862件であると言われています。家庭に愛が失われ、人間性が失われた悲しい現実であるのです。罪赦し、人間性を回復されるキリストの福音を心に受け入れなければなりません。イエス様を信じることは、人の心に神様の愛を取り戻し、真実の人間性を回復することになるのです。
「母の日」に改めて神様の愛をしっかりと受け止めて、心から母親に感謝し、主にあって孝養をつくそうではありませんか。

「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。『父と母を敬いなさい。』これは約束を伴う最初の掟です。『そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる』という約束です。」(エフェソ6:1−4)


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