阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年5月25日
「キリストと共にー孤独からの解放」
ヨハネによる福音書14章18-27節

 「人間は社会的動物である」というアリストテレスの言葉は、人は一人では生きていけない事を言い表しています。哲学者の和辻哲郎は、人の生きる道(倫理)、について、「“人間“は孤立的個人の意識にではなくして、まさに人と人との間である。」と言っています。人は一人では生きて行けないのであって、二人で「人」として生きられると言うのです。孤独で生きるという事は、ある意味で人間性を失った生き方といえるのです。しかし、孤独というものは、時として物事を深く思索する場合など、必要な時もあります。ドイツの哲学者M・シュテルナーは、「孤独は、知恵の最善の乳母である」という格言を残しています。それでも、人は助け合い、労わり合い、教え合い、支え合って互いに成長するのです。そして、常に共にいて教え、導き、支え、共に考え、重荷を負って下さる方がいることは最高の幸せといえるでしょう。ウエストミンスター教理問答書の初めには、「人間の最高の目的は何ですか」という問いがあります。その答えは、「人間の主な最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである」とあります。神を喜ぶ事は、神に愛されている自分に目覚めて生きる事であり、そこに愛されている喜びが溢れて来るのです。言換えれば、神様を愛する、信じる事です。「神の栄光をあらわす」、それは神様の喜びを生きる事であるのです。「神様の御心」に生きる事です。神様を愛し、神様の愛をもって互いに愛し合うことです。イエス様は「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)と言われました。そして、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と語っておられます。神様を信じる人に孤独はありません。イエス様は共にいて、重荷を共に負い、疲れを癒し、再生させて下さると約束されています。
 今朝の御言葉の冒頭に、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(ヨハネ14:18)とあります。みなしご、「孤児」とはしないと約束されているのです。「孤児」にしないとは、孤独にしない、独りぼっちにしないという事です。この御言葉は、イエス様が十字架に架けられる前の夜に、弟子達と最後の愛餐をしている時に語られているのです。弟子のユダが、ご自分を裏切ることを見通しながら、受難を告げ、甦ることを語られるのでした。その時にはその意味がよく分からず、いよいよ不安になる弟子たちに語られるのです。「心を騒がせるな」(14:1)「孤児とはしない」(:18)と告げられます。そして、「あなたがたのところに戻ってくる」と言われます。19節で、「世はわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」と言われているのは、復活の後を指しておられるのです。既に、その事は16、17節で、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」と語られています。「孤児とはしない」という御言葉は、「弁護者、即ち、真理の霊、聖霊を送り、永遠にあなたがたと一緒にいるようにして下さる。」と約束されている御言葉なのです。
 第一に、核にしなければならない事は、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」(:15)と教えられ、23節でさらに改めて「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(:23)と語られ、神様を愛する事は、イエス様の言葉を守る事であると明示されているのです。神様を愛するという事は、神様に愛されている事に目覚め、自覚し、確信する事であり、愛なる神の御言葉、戒めに生きる事であるのです。神様の愛と言葉があるところに聖霊は注がれるのです。言換えれば神様との交流の中に愛が生きている、神様の言葉が生きているところに、聖霊なる神はその交わりの中で働いて下さるのです。真理、即ち、イエス様の愛と霊が、御言葉の内にある者に、生きる命、力として臨在して下さるのです。
第二に、聖霊は「弁護者」として、見えざるイエス様が聖霊によってその職務を全うして下さることを約束しているのです。この「弁護者」、パラクレートス(παράκλητος)という言葉は、「弁護者」であると共に「援護者」「代弁者」「助け主」を意味します。口語訳では「助け主」と訳されています。この地上で人となられたイエス様が、その働きと教えを弟子たちに言葉をもって教えられた事を、霊なる方、聖霊はイエス様の言葉、真理を真実に、現実に、明らかにされるのです。誰にでも見えるイエス様は、神様の愛と恵みを働きとを言葉で教え、実際に十字架で神様の愛の真実を示されたのでした。その時弟子たちは、明らかにされている神様の真理、救いの道を悟りえなかったのです。然し、イエスの霊、聖霊は、弟子たちに明らかに真理を示され、理解させられたのです。弟子たちは、イエス様を愛し、信じ、慕っているのです。聖霊はイエス様の御心を明らかにされるのです。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(:26)聖霊がイエス様のされた業、その教え、出来事、即ち、十字架と復活の真意を明らかにされるのです。言うまでもなく、聖霊はイエス様の真理の霊であり、イエス様御自身、イエス様そのお方なのです。
 第三に、イエス様を見てはいないが、キリストの愛が、私たちの内に生かされているところに聖霊は臨在し、わたしたちを「助け」「弁護し」「助成し」導いて下さるのです。そこでイエスは言われるのです。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(:27)イエス様は平和を保証して下さるのです。平和、エイレーネー(είρήνη)は平安、安心、安全、無事などの意味があります。人にとって真実の平安の基本は、神様との和解であり、罪の赦しによる救いです。その救いによって神の愛を示されたのです。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストはわたしたちのために死んで下さったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ロマ5:8。)罪からの解放、救いによって真実の平安が与えられたのです。それはどのような変化の中でも変わることない平安であり、それは即ち、永遠の命に生きる平安であるのです。人の命には限りがあります。人生は消滅への変化を辿る道です。しかし、永遠の命はあらゆる変化を克服し、イエス様の復活の事実から約束されている新たなる再創造に希望と平安を抱き続けられるのです。復活が約束されているのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)滅びは消滅であり、存在の迷失です。どのような人生にも儚さと空しさが付きまといます。しかし、主イエスにあって、「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、…この言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』」(Ⅰコリント15:53-55)と使徒パウロは断言しているのです。現実には病や、生活の戦い、様々な苦しみがあります。いかなる時にも祈ることができ、共にいて下さる主イエス様の真理の霊、聖霊ご自身が「助け主」として癒し、解決して下さるのです。使徒言行録は聖霊行伝とも言われ、ペンテコステの聖霊降臨の出来事の記録に続いて、美しの門での生まれながら足の不自由な人の癒しが起こり、5千人の人が救われるのです。(使徒4:4)そして、迫害と苦難の中にありながら、奇跡が起こされ喜びと感謝に溢れて宣教が続くのです。
 主の愛に満たされ、愛し合うところに聖霊は働かれます。そこに主の臨在が証しされるのです。主の愛のあるところに、聖霊は豊かな神様の恵みを実現される事を覚えなければなりません。
「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3:16,17)



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