阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年6月1日
「確かなる待望の約束」
イザヤ書40章27−31節

 人生は「待つ」ことの連続だと言われます。目覚めてその日が始まり、家のこと、勤めに行くこと、仕事をすることなど、何かを目指して期待して生活を営んでいるのです。「待つ」ことは「期待する」ことであるのです。仕事をする、物を造り出す、また、商取引をする、様々な仕事は、成果を期待し、それを目指しているのです。そこに「喜び」があります。仕事の結果として報酬が与えられ、家族の生活が成り立ちます。家庭が経済的に支えられ、子供の養育がなされて円満な家庭の基礎が出来ると言えます。然し、現実の生活では様々な出来事が起こります。国際状況の変化の中で戦乱に巻き込まれ、国家の経済基盤が破壊されて一般市民の平穏な家庭生活が崩壊することもあります。又、繁栄していながら経済の仕組みがおかしくなることもあります。自由競走の経済体制で、大資本が小さい資力の経営者を押しつぶす現象も出ます。そこでは経営努力によって生き残りをはかれるかどうかが問われるのですが、経営の収益を優先させて、人々の生活を不安にする国の仕組みについては考える必要があるのです。ましてや、この世の中で助けの必要な弱い立場の人々を忘れることは、神様の創造の御心ではありません。
 神様を信じる時に気付く大切なことは、人は「摂理」によって生かされているということです。人の生涯とは、神様を信じ、受け入れ、従うことによって営まれる日々の連続であるのです。「摂理」は、聖書の言葉でオイコドメオーと言いますが、家を建てるという意味であるのです。言換えれば一人一人の人生には、変えることの出来ない「人生の計画」があるのです。正に、それぞれ人にある個性です。それは何にも代えられない尊い存在を意味しているのです。人生の営みは、与えられた個性をもって神様の示される人生の家を完成させることにあるのです。家を建設する時、基本になるのは設計図です。設計図こそが立てようとする家の基本です。
 イエス様に導かれ、救われて神の子とされたクリスチャンの人生の目標は、「神に喜ばれ、神を喜ぶ」ことに尽きます。「すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(Tコリント10:31)「神の栄光をあらわすべきである。」(ロマ15:7口語訳)と使徒パウロは教えており、「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Uコリント3:18)と言うのです。主の栄光を現わすことこそクリスチャンの喜びであり、満足であるのです。「栄光」とは、神様の御心が溢れ、輝くことです。神様が喜んで下さることにほかなりません。言いかえれば、神様の満足こそが人の幸福であると言えます。それは人にとっての喜びであり、満足であるのです。使徒パウロの書簡に記されている、「すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。」(コロサイ1:10)「 さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。」(Tテサロニケ4:1)「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ロマ12:2)「 何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」(エフェソ5:10)というような一連の言葉は、主に「喜ばれること」をクリスチャンの歩みの基本とすることを教えています。預言者イザヤは、「ヤコブ」と呼びかけるのです。ヤコブとは、神に選ばれた民としてのイスラエルを意味しています。ダビデ王によって国家の統一を果たし、その子ソロモンの治世で繁栄を極めながら、様々な政策のひずみと不信仰から、BC931年、王国は南北に分裂するのです。分裂王国の、北をイスラエル王国、南をユダ王国と呼び、南はベテルとツロに独自の礼拝所をおいて、ユダヤの信仰を伝承しながら偶像礼拝に陥るようになるのです。やがて、当時の巨大な勢力であったエジプトとアッシリアの峡間で攻撃と侵略に巻き込まれることになります、このような背景の中でイザヤはBC740年ごろから預言者として活動に入ったと言われています。やがてアッシリアの侵攻によって北王国は動乱のなかで滅亡します。イザヤは、ユダ南王国でウジヤ王の死の直前から預言者に召され、活動を始めます。ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王の時代を背景に働いたのです。ウジヤは善政をしいたのですが、傲慢になり主の礼拝の祭司職をないがしろにし、神を侮って悲劇的な死を遂げます。次の王たちも様々な偶像礼拝に走り、施政者である王は欲望のままに生き、治世は乱れ、不安に満ちていたのです。このような中でサマリヤが陥落し、南王国にも政情の不安が押し寄せてくるのです。その中にあってイザヤは主に信頼することを預言し、やがてバビロンに捕囚され、苦難の中を歩むとも、なお、主の民には回復と解放の時が来ることを告げるのです。「ヤコブよ、なぜ言うのか、イスラエルよ、なぜ断言するのか、わたしの道は主に隠されていると、わたしの裁きは神に忘れられた、と。」(イザヤ40:27)今、周囲を大国に囲まれ、侵略されようとしている情勢である。国内的にはこのような危機的な状況であるのに、王は欲望にふけって、民を顧みず、国は不安に包まれている。それを自覚しない為政者への言葉であるのです。19、20節には、「職人は偶像を鋳て造り、金箔を作ってかぶせ、銀の鎖を付ける。献げ物にする桑の木、えり抜きの朽ちない木を、巧みな職人は捜し出し、像を造り、据え付ける。」(イザヤ40:19,20)とあります。真実の神様の言葉を聴こうとしない背景を指摘しているのです。「わたしの道は主に隠されている」、主が隠しておられると断言しているのです。「わたしの裁きは神に忘れられた。」神様は何をお願いしても全く答えられず、言っていることさえ忘れておられるようだと、嘆き断言しているのです。
 そこで第一に心にとどめなければならないのは、「主はとこしえにいます神」であるということです。「とこしえにいます」とは、変わらない神様であるということです。また、「倦むことなく」とありますが、「倦む」とは、「嫌になる」「止めてしまいたくなる」「飽きる」「退屈する」ことなどを意味します。しかし、神はそのような事が決してない方であるのです。「疲れることなく」とは、勿論能力的に限界があるのではありません。そして、その「英知」は人間が思いも及ばないものであると宣告しているのです。神様は「愛」であり、「義」なる方であり、真実であるのです。如何なる変化があり、迷いが襲い、混乱と分裂があろうとも、神様は「英知」であり、その基礎は「愛」です。共に思い、共に歩み、共にいて支えて下さる生ける神であるのです。人生の様々な出来事の中に共にいて支え、導き、教え、諭して下さる方であるのです。
第二に、「神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ロマ12:2)主の御心、設計図に完全に、正しく立て上げて行く生活、人生を意味しています。命と存在の根源者である、創造主なる神様は、創造したものを支配しておられ、人の不信仰、罪、弱さのために御自分の満足、喜び、栄光が破壊された時であっても、愛をもってわたしたちに生きるべき道を示し、生かして下さるのです。「疲れた者に力を与え」と約束されるのです。どんな時にも主から眼を逸らさないで、主を見上げることを勧めているのです。
 第三に、だからこそ「主に望みをおく人は新たなる力を得る」と宣言するのです。「待つ」こと「期待する」ことは、そこに目標があるのです。人生は「待つ」ことの連続です。何を待つのか。「主を待ち望む」ことにより、その目標を主は与えて下さるのです。「永遠の命」と「神の御国」を生きる現実です。永遠の命こそ人生の目的であり、それは現実に神様の恵み、愛に生き、愛を実践し、神様の愛をもって生活を築き、営み、喜びと感謝にあふれた人生を歩むことです。その人には「主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」(イザヤ40:31)というみ言葉による人生が約束されているのです。正に、キリストを信じる信仰は、主を待ち望む、約束の聖霊を待ち望む人生なのです。神様の福音に生き、福音の喜びが満たされ、その喜びが福音を伝える力となる人生です。主を待ち望み、聖霊を待ち望みましょう。


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