阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年6月8日
「愛と喜びの力を受けよ」
使徒言行録2章36−42節

 力に支えられて人は生きる事が出来ます。生命の力、生甲斐の力、創造する力、物を動かす力、考える力、学ぶ力など様々な力が人を支え、生かします。今日はペンテコステの日です。ペンテコステは五旬節と言い、伝統的なユダヤの収穫感謝祭ですが、キリスト教会の設立を記念して祝う日となっています。教会設立誕生日であるのです。キリストの教会に、「命の力」が与えられた日なのです。正に、「命」こそ「力」です。  ペンテコステ〈五旬節〉を前にして、イエス様が最後に地上を去る時、弟子達に「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)と言われました。弟子たちは3年6ヶ月の間、イエス様の教えを聴き、その不思議な奇跡の業を目の当たりにして、この方こそユダヤ、そして世界の救い主、メシヤであると従ってきました。神の民イスラエルは、伝承されてきた「神の国」がイスラエルに実現するということは、やがて約束の王が出て、この地上に「神の国」を実現すると、信じるようになっていたのです。そして、神の民に与えられた律法を守ることを、神の民の資格とするのです。そこで、神の律法を持たず、それを知らない異邦人は、「神の国」に関係のない、裁きと滅びの民とみなして差別するようになります。ユダヤ人たちは、約束のメシア、王は、支配者、「神の国」としてのこの世を支配すると伝承的に考え、これを神様の御心としていたのでした。弟子たちは民族の願いを実現する方として、イエス様に従っていたのです。弟子の中にはイエス様がこの世の権力を制覇し、世界の王として君臨される時には、自分たちは右大臣、左大臣になりたいと、親まで一緒に画策する者もあったのです。
然し、常々、イエス様は神の国について、人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20−21)と言われているのです。そして、イエス様が昇天される前に、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒1:4,5)と言われるのです。しかし、弟子たちは「聖霊によって洗礼を受ける」ことの実際の意義が解らないのです。イエス様は既に苦難を受けて十字架に架けられ、予告通りに死から復活されました。その復活のイエス様に出会いながら、弟子たちは依然として理解できないのです。そして「主よ、イスラエルのために国を建て直して下さるのは、この時ですか」(1:6)と尋ねるのです。主は言われます。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(1:8)。ユダヤは、律法を与えられた神の民が、世界を支配するという自己中心な民族主義に陥っていたのです。この偏狭な罪深い現実の壁を越えて神の御心が現わされたのです。それは、「罪の赦し」です。神の無限の愛の赦しこそが、神の国の実現であることを教えられたのが、イエス様の十字架の受難の意味でした。主イエス様は、「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」(ヨハネ14:27)と言われ、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20−21)と断言されています。そして、ヨハネの手紙では、「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(4:12)と言っているのです。そこで、ペンテコステの日に、エルサレムで約束のものを待ち望み、祈っていた120人の主を信頼する人々に聖霊が下ったのです。(使徒2:1−4)彼等はグロッソラリア(知らない言葉)で祈るのでした。国の祭日であったペンテコステ〈五旬節〉で、エルサレムにはディアスポラ〈離散して外国にいるユダヤ人〉が、神殿参拝のため大勢集まっていました。朝9時だというのに、前後不覚で祈る弟子達を見て、人々は酒に酔っていると思ったのです。しかし、当時の世界の色々な国から来ている人々の言葉で神を賛美し、祈っているのを不思議に思って、見物していると、ペトロが聖霊に導かれて語り始めるのでした。「聖霊を受ける時、…力を受ける。…地の果てまでわたしの証人となる。」(1:8)正に、ペトロは聖霊を受けて「力」を得たのです。「確信」に出会ったのです。その「力」、聖霊の「力」によって「証人」として立てられたのです。
 ペトロは、信じているようでつかみどころがなく、主に愛されていながら、主を拒み、拒みながらその罪悪感に涙する人であるのです。不安に思うと恥も外聞も捨てて保身にはしり、危険にあうと裏切る弱い人でもあったのです。彼の曖昧さは、「聖霊」を受けた時に完全に変わりました。「力」を得たのです。揺るぎない確信、神の国の確信、永遠の命の確信を得たのです。聖霊による理解を得たのです。納得であり、「悟り」であるのです。
聖霊の力の第一は、イエス様を信じることによって得られる、理解する「力」です。人間の生まれながらの知性による理解力でなく、イエス様によって現わされた神様の愛を信じることによって得られる理解です。この「理解力」こそが、聖霊の「力」であり、「命であるのです。
 聖霊の力の第二は、ペトロが預言者ヨエルの言葉を示されて教えているように、「わたしの霊を全ての人に注ぐ。」(使徒2:17)そして「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(:21)です。神様の御心は、イスラエルは神の選民であるが、イスラエルだけに神様の約束があると限定していないのです。神様の御心は、全ての民に開かれているのです。イスラエルは律法を伝えられながら、律法の使命を忘れていたのです。律法は人の罪深さを教え、人の弱さを示すためにあります。究極的には神様の前に人を悔い改めに導くことであり、神様の赦しを愛の内に待ち望み、受け入れて下さる恵みで道が開かれて行くのです。その赦しこそ、イエス様の十字架の出来事であったのです。神様は例外なく全ての人に愛の手を伸ばし、悔い改める人、全て愛による赦しを与えて下さったのです。主はその人の罪の代償を十字架で命を捨てて支払ってくださったのです。ペトロは、そのこと、十字架の出来事の意味を受霊によって明確に悟るのでした。揺るぎない「神の愛」を体験するのでした。ペトロは説教の結論として、「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(使徒2:32)と宣言するのです。ペトロは変えられました。神様の揺るぎない愛に生かされるのです。確信を持って、決して2度と否定することなく、毅然とした信仰の勇者としての生涯を歩むのです。
第3に、ペトロの説教を聞いた人々が心を打たれ、「どうしたらよいのですか。」と言った時、率直に、「悔い改めなさい。そして洗礼を受けなさい。そうすれば聖霊を受ける」と勧めるのでした。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(使徒2:39)と、神の愛の無限性を示しているのです。その日、3千人の人々が洗礼を受けたのです。これがキリスト教会の誕生の出来事です。「地の果てまでわたしの証人となる」(1:8)キリストが生きておられることを証しする揺るぎない証人、それがキリストの教会であるのです。キリストの命、それは真理の聖霊であり、キリストの「愛」の現実であるのです。 ペンテコステに下った聖霊は、今もイエス様を信じる人と共にいて、神の国、神様の愛を証ししてさるのです。使徒パウロは言います「聖霊に満たされ続けなさい」(エフェソ6:18)。



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