阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年6月22日
「地の塩、世の光」
マタイによる福音書5章13-16節

 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」
(マタイ5:13−12)
イエス様はクリスチャンに「あなたがたは地の塩、世の光である」と教えられています。地というのは人が生きる場を現わしています。人の営む社会という事もできます。また、光は世に社会がきる環境を指しているのです。「地の塩」とは、人が生きるための社会の土壌の腐敗を防ぐ事を言い表しています。「世の光」は、その社会を明るくし、見通し、理解させる可能性、即ち、希望を与え、命の根源として社会を生かすのです。
 聖書を人生の教本のように読むと、「あなたがたは地の塩、世の光である。」とあっても、実際にはそれは理想であって「良い言葉だなあ」という感想を持つ事になるようです。然し、イエス様を救い主と信じるという事は、御言葉を信じる事であり、その教えに生きる事です。言いかえればイエス様を信じて生きる事は、その御言葉に生きる事であるのですが、「地の塩である」と言われても、すぐに実感はわいてこないと言えます。しかし、「地の塩」にして下さるという約束の意味で理解する時、この言葉は体験的なものに変わるのです。人間は自己中心であり、自分が生活することで精いっぱいであり、くじけやすい弱さがあり、時には失敗する、長続きしないというような思いがあります。しかし、イエス様は受け入れ、その弱さのみならず、根本的に罪深く、迷い多い人間を救いの道に招き、導き入れて下さったのです。神様を信じ、神の偉大さを認識する時、自己存在の惨めさを知り、果てしなく弱い、罪深い自己と出会う事になります。そして、神様の恵みに生かされ、愛されている自分を見出すのです。神様を信じる事は、神様の御言葉に生き、生かされる、支えられ助けられる自分であることを知ることです。神様を信じる信仰は、「希望は失望に終ることはない」(ロマ5:5口語)のです。そして、ハッキリ言うのです「神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ロマ8:31)「わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。」(ロマ8:37口語)。この確信は、イエス様の贖いによる救いが希望と勝利の裏付けとなって、確固たるものとなっているのです。「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(Tヨハネ5:4−5)ここに信仰による確信があるのです。
 この地、社会の仕組みの中で生きて行く時、様々な課題があっても、主が共にいて支え、教え、導き、闘って下さるのです。
 イエス様は巧みな譬を持って教えを語られています。
「地の塩」であると言われていますが、「塩気がなくなれば、その塩はなによって塩味が付けられよう。」(マタイ5:13)と指摘されているだけで、直接塩の効用については語られていません。「味付け」についての指摘です。どのような食物も、「塩味が決めて」と言われるように、確かに大切な要素であるのです。しかし、塩は、「味付け」と共に食物の「腐敗を止める」事、「食料を保存する」事などにも古来使われてきました。そして、人間は、砂糖はなくても、塩分なくして生きる事が出来ないと言われます。 16世紀に、川中島で武田信玄と上杉謙信が戦った時、駿州の今川氏と相州の北条氏は、武田勢の搦め手から塩の道を絶ったのです。甲州の民百姓は困りはて、兵は狼狽したのです。上杉謙信は、北の塩の道を解放して、塩を送ったという逸話があります。戦いは相互に殺戮でありながらも、民百姓までも巻き添えにする事の痛切な思いを共有したのです。如何に人間にとって「塩」は貴重なものであるのかが解るのです。
 塩がなければ人間は生きて行けないのです。人間が生きて行けない事は社会が成り立たないといえるのです。クリスチャンは「地の塩」であり、もしその効用が果たされていなければ、投げ捨てられると言われているのです。
 第一に、クリスチャンは「キリストの大使」です。私達の教会の青年会はCAと呼びます。これはクライスト・アンバサダー、[キリストの大使]の略です。この地、即ち、この世は人の国です。キリストの国「神の国」は、神の臨在されるところを意味します。神の御心を伝え、神の御心を現わす事を意味します。この世にあって神の国を伝え,証しし、神の国を打ち立てる使命を持った人であるのです。イエス様は人々が「神の国はいつ来るのか」と尋ねたところ、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20−21)と言われました。神の国の民の法律は、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34−35)なのです。キリストの弟子、即ち、神の国の民は、「互いに愛し合う」、この戒めによって成り立つのです。神の愛によって成り経つ時に、様々な欲望や、争い、対立があっても、愛という「塩」により、味気のない、無味乾燥の騒乱の中でも、「神の国」の平和、平安が愛の効力によって与えられ、共に生きる希望と道筋となるのです。
 第二に、「塩」は腐敗を止めます。そして神様にある信仰の「塩」こそは、回復を与え、効力を有効にし、この世を生かすようになるのです。塩が食物の腐敗を止め、維持するように神様の愛はこの世に命を与えるのです。人は神様の愛を見失う時、欲望と権力の亡者となって、終わりのない戦いを続けるのです。聖書、神様の言葉が生きる時、そこに神の御心である愛が、和解と平和を求めるのです。命を大切にし、互いに、助け合う「神の国」の喜びが芽生えるのです。
第三に、塩は、食物を豊かに味付ける効能を持っています。食材のバリエーションを広げて生活を豊かにし、楽しくするのです。快い食事の楽しみであるのです。どのような暗い世の中でも福音の喜びが豊かにするのです。神の民に約束されている「永遠の命」こそ、真実の不変の平安です。そこに全ての存在の意義があるのです。もしこの世に何のために存在するのかさえも見いだせない人生であり、生涯であるとすれば、果てしなくもの悲しく、空しいのです。それが神の無い世界であと言えます。クリスチャンが真実に塩の効力を自覚しなければなりません。
 そして最後に、「あなたがたは世の光である」という言葉をしっかり理解しなければなりません。太陽の光こそ、生命を生みだし、命あるものを育成する源であるのです。又、光の無いところは闇であるのです。「あなたが世の光である」と言われる時、あなたがいないところは闇である事になります。光は命をはぐくみ、お互いの交流には欠かすことができません。闇は騒乱であり、自由の無い恐怖です。光のあるところには自由があります。判断、選択の可能性があります。光は平和を与え、闇は犯罪を生みます。心に神様の国の光があるなら、この世には命と希望、平和と自由、喜びと交流が生まれます。
 光、愛の光、命の光、福音の光がクリスチャンに輝く時、この地に神の国が見えるようになるのです。永遠にキリストの光が一人一人のクリスチャンに輝くように!!!


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