阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年6月29日
「信仰の豊かな約束の実」
ガラテヤの信徒への手紙5章19-25節


 花の季節が終わると、美しく咲いた花が見事な実となって食卓をにぎわせてくれます。2月の寒い時に咲く梅は、六月ともなると多くの実を結びます。3月には桃の花が咲き、夏になると美味しい桃の実を実らせます。4月には桜が咲いて、やがて可愛いサクランボが実るのです。植え付けられたスイカやメロンが実を結びます。日本では、一年を通して様々な果物が食生活を楽しませてくれます。最近では品種改良でできるようになった夕張メロンや、三次のピオーネなどが多くの人々に好まれています。植えられたものが心をこめて手入れされ、育てられた、その結実であるのです。植物を育てるには、植える前に土壌に手を加え、植える種に従って配肥に注意するのです。或る時は土壌に藁を敷き、支柱を立てて育成するのです。
 イエス様は、クリスチャン生活が豊かな実を結ぶように、種まきの譬えで教えられています。そこでは4つに分けて、蒔かれた種の結果を示しておられます。その一つは道端に蒔かれた種です。御言葉を聞いても心にしっかり受け入れ、悟らなければ取り去られてしまう事を示しています。また、その二には、土地を手入れしていない石ころだらけのところに蒔かれた時、根を深くする事が出来ないので枯れてしまう、試練や迫害がある時、たやすく信仰を失ってしまうというのです。その三は、茨の中に蒔かれた種で、芽は出るが、茨が遮り育たない。これはみ言葉を受け入れても世の思い煩いや、富の誘惑に心が惑わされて信仰を捨て去る事を指しています。そして、最後の「良い地」に蒔かれた種は、御言葉を聞いて悟り、実践する人であって、ある人は百倍、ある人は六十倍、ある人は三十倍の実を結ぶというのです。信仰生活の実を結ぶ大切な姿勢と注意を与えているのです。(マタイ13:1−23。マルコ4:13−20。ルカ8:11−15)これはイエス様の御言葉を聞いて、信じた人の信仰の姿を、蒔かれた種、即ち、御言葉を受け入れる心の姿勢が「良い土地」であるように説いています。
 ヨハネによる福音書15章では、イエス様が「まことのぶどうの木」であり、手入れをされるのは父なる神様であると示されています。そして「あなたがたは枝」であると言われているのです。そこで実を結ばない枝は剪定されるのです。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)
枝に繋がっていても実を結ばない時は、父なる神は取り除かれるのです。言いかえれば、イエス様を信じていても実を結ばなければ、取り除かれる事が父なる神様の御心であるのです。この取り除かれる枝こそ、種まきの譬で道端、石地、茨の中に蒔かれた姿であって、枝に繋がっているのだが、幹から命を受給していない枝を言っているのです。イエス様の幹に繋がって、その幹の命を受け入れる事によって実を結ぶ事が約束されているのです。「宗教」という言葉はレリギオと言い、その意味は「結ぶ」という意味です。正に、神様と結ぶ、結んで神の命に生きる。神様の約束される命の実を結ぶ事です。イエス様の幹と結ばれているのです。イエス様こそ差し出されている命の幹です。罪深く、遠く離れ、神様を拒んできた者に、御手を差し伸べ、救いの道を開いて待ち続けて下さったのです。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ロマ5:8)イエス様は言われます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)イエス様の示された道を踏み出したクリスチャンが、最も基本的に自覚しなければならないのは、「愛されている自分」であるのです。神がエレミヤに語られた言葉は、エレミヤにだけ語られた言葉ではなく、全てのクリスチャンに向けられた言葉です。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」(エレミヤ1:5)神様の恩寵は、わたしたちがイエス様に従う前に、従えるように導き、教え、諭して下さっていることが解ります。
 信仰の実を結ぶ第一前提は、わたしたちが自覚しようが、しまいが神様の愛はわたしたち一人一人に備えられ、与えられているのです。それは神の御霊の働きです。聖霊です。聖霊は命です。この命こそが愛です。この見えざる御手、御心を自覚する時に、信仰は揺るぎない確信となって、主に従い、命を受ける喜びを経験するのです。これを聖霊の先行的お働きと言います。
 第二に、キリストの枝に繋がり、命が流れ来る喜びを経験することです。命が流れて来る時、その命は聖霊として働き、この命に繋がることにより恵みに、愛に生かされている自分を確信できるのです。そこにクリスチャンになった自分を見出すのです。この経験こそ聖霊の効果的なお働きであるのです。
第三に、キリストの枝に繋がっている事は、聖霊の具体的な実を結ぶ働きに踏み出すことになります。聖霊の実際的な豊かな実が実るのです。キリストに繋がっているなら「豊かな実を結ぶ」という約束です。聖霊の実は、キリストの御言葉が心の中で熟成して全人格的に表されるのです。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。」(コロサイ3:16)という御言葉こそ、クリスチャン生活の基礎的な歩みであるのです。キリストにある聖霊の源泉に繋がる事です。キリストの言葉、キリストの人格、キリストの霊性、キリスの命が、そこから「聖霊の実」として結実するのです。ですから単に聖書、キリストの言葉を読むのでなく、基本はキリストの言葉に聴くのです。聴く事から信じる信仰の応答が生まれます。そこに聖霊の実の結実の根拠があるのです。応答こそ祈りです。祈りによって信じる信仰が内実され、キリストの言葉、キリストの人格、その臨在が創造の初めに人に与えられた人を生かす神の息、ル―ハ―、霊が芽生え、結実する事になります。
 神様から離れた人間は自ら神様を見失い、アダマ、土だけ、肉の営みで生きるようになるのです。それは「欲情と欲望」の生を生きているのです。(ガラテヤ5:24)その結果として人の営みの現実は、「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」(ガラテヤ5;16−21)とあるように、人の歴史の営みは支配意欲による闘争と制圧、尽きせざる罪の連鎖であるのです。しかし、その「情と欲とをキリストの十字架につけてしまった」のです。(5:24)「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:19−20)とあるように、罪に支配された「肉」は、キリストに贖われて本来のル―ハ―、霊性が甦り、キリストによって示された神様の人格、その中心である神の愛が豊かな実として結ぶのです。「霊の結ぶ実は愛である。」(ガラテヤ5:22)と冒頭で指示しています。そして「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(:22)という実が約束され、クリスチャンの聖霊の働きの実が結ばれるのです。忘れてならない事は、この御言葉の9つのクリスチャン品性の実の根底にあるのは「キリストの愛」であり、それが中心であり、根源的な愛の実は「謙遜」である事です。それはフィリピへの信徒への手紙に、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ・・」(フィリピ2:6)。とあるとおりです。日々、キリストを見上げ聖霊の実が豊かに実るように努めましょう。
 第四に、聖霊の実は確定的に表されてきます。聖霊は習慣的にその実を確実なものにするのです。キリストが共におられる。キリストの愛が聖霊によって稔るクリスチャンを目指して日々祈り、御言葉を深く悟り、御言葉を伝えようではありませんか。


 ページのトップへ
  
2014年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ