阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年7月6日
「信仰による喜びの泉」
ヨハネによる福音書7章37-39節

 今日のように科学が進歩しても分からない事は多くあります。何事でも理性や理屈で理解する事には限界があります。ベルグソンは、「笑い」という書物で「人間は笑う動物である」と言っています。様々な動物にも「笑い」があると理解する研究もあるようですが、動物としての満足度、安心感などがその表情になるといえるようです。笑いは人にとって固有で、不思議な感性であるようです。「笑い」と共に「喜び」もまた嬉しい時の表情であるのです。聖書の有名な御言葉に、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(Tテサロニケ5:16−18)や、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(フィリピ4:4)とあるのは、クリスチャン信仰の基本的な生活の在り方を現わしています。聖書には「笑いなさい」という言葉はありません。本来「笑い」は、コミュニケーションから起きる出来事を通しての感情的な反応であると言えます。また「喜び」は、価値があると受け止めた心の実感の応答であるといえます。また、人の事を見下げて「せせら笑う」こともできます。人に対する「冷笑」は、優越感、軽蔑の笑いと言えます。「嘲笑う」のは優越の笑いと言えます。意にそわない時の「苦笑い」などは、「笑ってごまかす」笑いといえます。もっと詳しく分類できますが、「笑い」は第三者の人や物との関わりへの反応で生じるのです。然し、喜びは出会いの結果、そこに意味や価値を感じ、理解し、感動する時に生まれます。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」という御言葉は、「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Tテサロニケ5:16−18)と続いています。このことを主イエス・キリストはクリスチャンに望んでおられるのです。神様の願いは、神様の保証であるのです。言いかえれば、約束です。「いつも喜べるように」してあげるという約束であるといえます。神様が人に出来ない事を望まれる事はありません。人にできない事も出来るのが神です。聖書には、「神にはできないことは何一つない。」(ルカ1:37)とあります。愛であり全能の神様が、人に望まれる「いつも喜べ」という願いは、「いつも喜べる」ようにしてあげるという約束を意味するのです。
 人の生活には喜べる事より、悲しみ、苦しみ、戸惑い、迷い、不安、嘆きの方が多いのです。はっきりとイエス様は「あなたがたには世で苦難がある。」と言われ、そして「然し、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)と断言されているのです。
 今朝、与えられた御言葉には、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37,38)とあります。これは、御自分を信じている人たちが受けようとしている「霊」について言われたのです。言換えれば、渇く事は、水に渇くことであり、イエス様が約束されている水を飲む時に、その水は川々となって流れ出ると言うのです。その川の流れこそ、「霊」の流れであると言うのです。
 第一に、「渇く」とは、消滅する限りある人生への不安、孤独、空しさへの自己への問いかけです。移り行く日々の生活、限りある人生の儚さによる心の空しさと、霊的迷いによる自分の行く末を思い悩む、現実の苦悩を意味しています。使徒パウロは、「罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物はわたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命です。」(ロマ6:33)と言っています。死という消滅こそが空しく、悲しいのです。人は有限です。正に、限りある命が消滅する事を、「渇く」が現わしているのです。然し、イエス・キリストを信じる者には、「霊」の命が回復し、その命が川々となって溢れ出ると約束されています。限りある存在の自分から、無限の命、霊の命、キリストの霊が湧出するのです。その無限の命こそ永遠の命であり、神様の霊が、命として溢れ出る経験です。 言換えれば、神に愛されている私の自覚であり、発見であるのです。永遠の命こそ神様と共に生きる祝福の喜びであるのです。愛されている自分の発見は、人を愛する力であり、信頼と希望にある自分の発見なのです。主イエス・キリストは、神の御子であり、その愛の故に、神を見失しない、罪と闇の中をさまよう人々を、その中から解放するために、十字架によって犠牲になられたのです。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(Tヨハネ4:9)。ですからキリストを信じる人に約束されている「霊」、聖霊は神そのお方としてイエス様を信じる人と共にあって、現実の生活に勝利を約束されるのです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)。
第二に、「生きた水が川となって流れ出る。」(ヨハネ7:38)。イエス様を信じる信仰は、現実の様々な試練の中で、生けるキリストが「共にいて」(マタイ28:20)、如何なる時の重荷をも分かち合い、背負って下さる事を体験する事です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28−30)。この御言葉を通して、多くの人がイエス様を信じています。「いつも喜びなさい」という事は、主が「共にいる」「助けてあげる」「重荷を負ってあげる」という約束があるからなのです。ですから使徒パウロは、「これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ロマ8:31)「これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」(ロマ8:37)と明確に宣言するのです。これこそが主イエスを信じる信仰によって与えられる確信です。
第三に、ですから「いつの喜べ」という言葉が現実に生きているのです。イエス様を信じる人には、「聖霊」の命が約束されているのです。「聖霊の実は愛と喜び」(ガラテヤ5;22)であると明記しています。イエス様に愛される喜び、命の喜び、喜びは聖霊の命です。喜びは主を信じるクリスチャンの力です。だからこそ如何なる環境にあっても、勝利を確信できるのです。聖霊に満たされましょう。
「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(Tヨハネ5;4−5)



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