阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年7月20日
「主イエスの優しさの力」
ルカによる福音書18章35-43節

 日々、人と一緒に仕事をしたり、付き合ったりしていると、様々なトラブルが起こる事があります。それを解決するために相談をしたりすると、時には議論になってしまい、対立する事もあります。または利害に
よって対立してしまう事もあります。そのような時に人はえてして本性がむき出しになるものです。聖書は、「いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう。」(コロサイ4:6口語)と記しています。また、使徒パウロ自身は、「はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉をかけている。わたしは今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされている」(Tコリント4:12,13)と記しました。「優しさ」は、イエス様を信じる信仰の恵みです。聖霊の賜物であると言えます。クリスチャンはイエス様を信じています。イエス様を信じるという事は、イエス様の言葉に生きる事を意味します。イエス様の言葉とは、「十字架の言葉」(Tコリント1:18)です。そしてイエス様を信じる人には「力」であるのです。それは人を生かす命です。その命こそは神の霊であり、イエス様を信じる者に内在する神である聖霊です。ですからしっかりと自覚しなければならないのは、「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19,20)という御言葉です。さらに使徒パウロ言います。「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。」(ガラテヤ5:16)。そして「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(5:25)というのです。ガラテヤ5章22節には、聖霊の賜物として九つの品性が「愛」を中心に示されています。示されているのは、「喜び」「平和」「寛容」「親切」「善意」「誠実」「柔和」「節制」であって、ここにある8つは「愛」で総括できるといえます。パウロは手紙の執筆上、簡単に集約していますが、愛の根本的で本質的な品性は、「謙遜」であるという事は、今までにも繰り返して語られている事です。その根本は、フィリピの信徒への手紙の「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(2:6−8)という御言葉に表されています。そこに示されているのは、イエス様のケノーシス(謙遜)であるのです。愛の極みです。愛する者のために自らを犠牲にする、仕える者となる。僕となるのです。主イエス様は、神の御子であられたけれども人となり、しかも僕となって命を犠牲にされたのです。そこには命、勇気があり、忍耐、柔和、寛容、善意、誠実、節制が示されています。そして十字架の恥と苦悩と悲しみを通して、人々を救う「喜び」を示されているのです。
イエス様によって示されるその神の「愛」は、悲しみの中から生まれる「喜び」であるのです。その愛の中心は「優しさ」なのです。聖霊に導かれ、聖霊に生きる事こそクリスチャンの霊性の成長であり、イニシエーション(修行)であると言えます。その「行」こそ、「祈る」事にあります。そして「御言葉」に聴く、「礼拝する」、神様を崇め、賛美する。主の業、主の愛の業を実践する事で品性が内実する事になります。
 イエス様によって表された神の愛こそ、神の「優しさ」であるのです。使徒パウロは、「わたしパウロが、“キリストの優しさと心の広さ”とをもって、あなたがたに願います。」(Uコリント10:1)と言っているように、「優しさ」は「心の広さ」でもあるのです。「心の広さ」とは受け入れる容量の大きさを意味しています。心の広さとは、また様々な問題や課題があっても受け入れ、話し合い、重荷を共に背負う事ができる事を意味します。それは「優しさ」に裏付けられて出来る事です。また、優しさは「思いやる」事でもあります。相手の気持ちになって考える事です。更に、優しさは「勇気」の前提であるといえます。「優しい」事は軟弱とも思われますが、「優しさ」こそ「忍耐」「勇気」が裏付けられているのです。真実に優しい人は愛の人です。優しい人は忍耐深く、情け深い、ねたまず、自慢せず、高ぶらず、苛立たず、恨みを持たない。忍耐し、信じてくれる人です。
 エリコの町の道端で物乞いをする人がいました。目が見えない為に働く事も出来ず、人の情けにすがりながら、幾ばくかのお金を求めていたのです。寒い日も、暑い日も埃の立つ道端で、人の入れてくれるお金の音に一喜一憂しながら日々を過ごしているのです。そこには希望もなく喜びもないのです。そのような彼は、最近、ダビデの再来、救い主メシアのような人がナザレの村から出られたと聞いていたのです。難病の人が癒された。生まれつき歩けない人が歩いた。虐げられている人が心の平安を与えられて生きる勇気を持ったというような、信じられない事が起こっているという噂を聞いていたのです。彼は何時かその方とお会いできたら思っていたのです。何時ものように道端に座っていると、大勢の人が小走りに走って行く足音が聞こえるのです。いつもなら一人や二人が近寄り、お金を恵んでくるのに、今日に限って誰ひとり止まってくれる人がいないのをいぶかっていました。「これはいったい何事ですか。」と人に尋ねると、思わない事を耳にするのです。「ナザレのイエスがお通りになるのだ」という声が聞こえてきたのです。そうだ、この方にお願しよう。一瞬考えたのです。しかし、大勢の人が小走りで行くのについていけない。どうすればよいのか。一瞬の苦悩が過(よぎ)る。座っていてもどうにもならない。皆と一緒に走り出そうか、誰かに手を貸してもらおうか、彼は、とうとう考えあぐんで叫ぶのでした。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんで下さい。」繰り返し、繰り返し、どこにおいでになるのか分からない。兎に角叫べばなんとかなる。この機会を逃がしては二度とお会いできない。切なる声で、空を見つめるような顔で叫ぶ盲人を、とうとう先に行く人々が叱りつけるのです。然し、盲人はますます激しく、人が何と言おうと必死で「イエス様、憐れんで下さい。」と叫び続けるのでした。イエス様の耳に声が届いたのです。人の制する声と悲痛な声が入り混じって聞こえてきたのです。イエス様は、その盲人を連れて来るように命じられました。彼が近くに来ると、「何をしてほしいのか。」と聞いて下さいました。初めて出会ったこの人が何を望んでいるかを優しく問いかけられるのです。彼はすかさず「目が見えるようになりたいのです」と言います。イエス様が早速、「見えるようになれ。あなたの信仰が、あなたを救った。」と言われると、彼の眼が見えるようになるのです。盲人は驚きと感激で神様をほめたたえました。賛美したのです。それだけではありません。イエス様のこの恵みの業に感動して、イエス様に従うようになるのです。それはイエス様の弟子になったという事であるのです。
 第一に、この出来事の教えは、「神様が愛」である事を明示している事です。一人の社会から忘れられた、いや、見捨てられた人間の悲惨な有り様が示されました。その人の求めるものさえ無視するような人々の中にあり、悲惨さ、孤独と絶望にあるこの盲人が、回復と自立を求めて「目さえ見えれば」、見下げられない、差別を受けない、世話にならないですむ、自分の生活を自分で支える事が出来る。「眼さえ見えれば」、「見えるようになりたい」、その一念にイエス様が答えて下さると、「信じ」て求めたのです。そこで奇跡が起こったのです。イエス様の執り成しで奇跡の出来事が起こったのです。その出来事、奇跡は神の業であるのです。神は全能である事の証しです。苦悩と絶望にある人に光と希望を与える「神の愛」の業のメッセージであるのです。主イエス様の解決とみ救いは「神の愛」のあらわれです。
 第二に、神の愛の「優しさ」を現わしています。この世や人々が、この盲人の切なる願いを拒み、無視しようとしても、主イエス様は捨て置く事ができない、その障害を取り除いて手を差し伸べられる優しさによる勇気が救いの道を開いたのです。
第三に、「あなたの信仰が、あなたを救った。」と言われています。盲人の目を開ける奇跡は、主イエス様の業であるのです。然し、求める者があって、与えることが出来るとすれば、求めたから与える事が出来るのです。盲人がイエス様が解決して下さると確信したから、答える事が出来たと言われるのです。求めなければ得られないのです。主は人の心に芽生える神への信頼を喜んで下さるのです。
本人だけでなく、見ている人々も主を褒め称え、賛美するのです。神を信じる信仰は、神の愛に生きる人になる事です。神様の愛はイエス様に現わされ、聖霊として信じる人の内にその実を結ばれるのです。イエス様の愛を聖霊によって生活の中で証ししようではありませんか。「優しさ」こそ、命の現れであり、愛の具体的な現れになります。そこに「思いやり」「いたわり」「交わりの回復」「忍耐」と、「勇気」が生活を豊かにし、道を開くのです。
「優しい舌は命の木である、乱暴な言葉は魂を傷つける。」
(箴言15:4口語)



 ページのトップへ
  
2014年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ