阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年8月3日
「祈りの力と豊かな稔り」
エフェソの信徒への手紙6章10-18節

 暑い季節は太陽熱と水で稲が盛んに成長する時です。水を満たしている田圃に太陽の光が注がれ、稲は成長して、やがて九月になると稲穂が下がり、実が熟します。然し、時々天候不順で様々な試練が襲う事があります。農業従事者は雑草を取り除き、水田の水を見守り、収獲を待ちます。イエス様は、父なる神を農夫にたとえ、信仰の健全な成長について語られました。御自分をぶどうの木とし、信じる人達を枝として譬えておられます。(ヨハネ15章)その関係によって、「教会の在り方」と、「信仰の結実の基本」の本質を現わしています。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(ヨハネ15:7、8)
信仰生活の豊かな実を結ぶ事こそ、活ける神様の恵みの証しであるのです。そして使徒パウロは、「教会はキリストの体である。」(エフェソ1:23)、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(Tコリント12:27)と言っています。言いかえればキリストを信じる事は、キリストに繋がる事であり、教会生活によって成長するのです。宗教改革者の一人であるカルヴィンは、「母なる教会」と言いました。キリストの御体なる教会に繋がる事によって信仰は育てられ、育成され、実を結ぶのです。キリストの体なる教会で御言葉に養われ、共に祈り、恵みを分かち合い、キリストの使命に生きる喜びを共にするのです。健全な信仰こそ健全な教会を形成し、豊かで充実した実を結ぶ事になります。
 ローマ書は、これから訪れようとする、ローマの人々に信仰の根本的な福音を示していますが、エフェソ書では、教会の根本的な在り方について見事な文体で教えています。
1、教会の根本的な成立、2、教会の自覚と成立、3、教会の一致、4、教会の世界性と神の愛、5、信仰生活の在り方の指針、そして、最後に信仰は戦いであり、絶えず挑戦してくる悪魔の誘惑と、試みに勝利するために、神の武具を身に着け、戦い抜く教会であり、クリスチャンであるように勧めるのです。既に「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(4:13)と記しています。成熟したクリスチャンは、「主に依り頼み、その偉大な力によって強く(生きるように)なりなりなさい。」(6:10)と、「最後」の締めくくりとして教えています。その戦いとは、「悪魔の策略に対抗する」事であり、「私達の戦いは、血肉を相手にするものではなく…暗闇の世界の支配者、…悪の諸霊を相手にするものなのです」(6:12)とあります。悪魔とは、神に敵対するもの、人を陥れ、神が悲しみ、憂い、嘆かれる存在であるのです。その戦いのために、当時のローマ兵の武装の様子をたとえとして描きながら、神の武具によって戦う事が勧められています。「どんな時でも“霊”に助けられて祈る」(:18)ことを結論的に総括しています。祈りは基本的に、「御言葉」に応答し、御言葉が実現し、それが祝福として実る事を願うことです。主の臨在に交わる事であり、主の御心が心の中に深く根差し、育成されるのです。即ち、神様の存在が聖霊として命として、力として、歩むべき道として満ち溢れるのです。この祈りの修練こそが、クリスチャンが霊的に生きる事を意味しているのです。祈るクリスチャンこそが霊的に成長するのです。
 第一に、「霊」に助けられて「祈る」事が勧められています。霊は人を生かす命です。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」(ローマ8:6)ここでいう肉とは、物質的な充足の欲望を指しています。物理的な行動を意味し、霊はその物質的な存在を生かす、即ち、生きる事の喜びと充足を与える事を意味するのです。「肉の思いは死である」とは、自己の欲望だけに生きる時、放縦となり、共に生きる事を破壊し、人の命を軽んじる事になります。そこに紛争が生じ、生活の破滅が起こるのです。人は人と共に生きて人となるのです。「肉」の思いは「死」であるとは破滅を意味します。「霊」の思い、「キリストとの交わり」、その御言葉に生きる時、そこには「平和」と「命」が結実するのです。聖霊に助けられて祈りの生活を充実したものとしましょう。
 第二に、聖霊の臨在は、活けるイエス・キリストの経験です。キリストは、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15:5)と言われ、その後で再び「あなたがたが、わたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(:7)と言われるのです。キリストに繋がる。キリストを信じる事はキリストの言葉に生きる事を意味します。コロサイ3章では、キリストの平和、安らぎは神の愛に生きる事であり、その基本は「キリストの言葉を豊かに宿らせる」(3:16)事を示しています。聖霊によって祈るとは、キリストの言葉の約束に基づいて祈る事にほかなりません。聖霊によって活けるキリストと出会い、キリストと語るのが「活ける祈り」であるのです。神は聖書を知らないまま祈る祈りも聞いて下さる方です。然し、成熟し、成長し、充実したクリスチャンは、キリストの言葉、聖書に養われなくてはなりません。聖書を読めば、読むほど祈りの生活が深まり充実し、祈りが深まれば深まるほどキリストの言葉、聖書を聴く事が慕わしくなるのです。健康な人には食欲があり、美味しく食事がとれるように、霊的に健康な人はキリストの言葉を慕い、祈りに導かれるのです。
第三に、「絶えず、目を覚まして根気よく祈り続けなさい」(エフェソ6:18)とあります。絶えず、目を覚まし、根気よく祈り続ける事が教えられているという事は、「祈りの目標」の成就に時間がかかる事を示します。イエス様は、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない。」(ルカ18:1)と教えておられます。口語訳では「イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。」と訳されています。失望せずに、諦めないで祈る事です。祈りは瞬時に応答が明らかになる時もあります。半年、一年経っても答えられない事もあります。そのような時に、「諦めて」しまうのです。祈りは「諦めない」事、言いかえれば「信じて祈る」信仰の裏付けられた祈りが必要です。トマトの種を植えたら芽が出て、茎が伸び、葉が出て、花が咲く、真っ赤なトマトが稔るには時間がかかるのです。信仰が祈りの実効性を裏付けるのです。キリストの言葉を信じ、信じて祈る祈りこそ、「諦めない祈り」となるのです。信仰は確信の裏付けの無い時には、絵に描いた餅であると言えます。「少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」(マルコ11:23)。そしてヘブル書に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(11:1)と言われています。「信仰とは見えない事実を確認する事」と言えます。見ていない未来を現在に確信するのです。そこに現実を超えた喜びと感謝が生まれるのです。
 30年前に新しい会堂を建設するビジョンが与えられました。現実の経済状況では可能性がなかったのです。出来る事から始めるという手もあったのですが、祈っていると夢が膨らみ、ビジョンが大きくなるのです。みんなで祈りました。その時代は宗教法人には銀行融資が難しい時代でした。然し、祈り始めました。一年の経過の後、教会の献金額と融資で献堂が可能となり、現在の美しい会堂が建て上げられたのです。しかし会堂が建っても、ベンチや調度品の予算がなく、出来あがる前に祈り始めました。不思議な方法で神様は全てを満たして下さったのです。時あたかもテレビ伝道が始まり、新しい会堂がテレビスタジオにも用いられたのでした。ハレルヤ、感謝。主は生きておられる。
 失望せずに祈る事が大切です。祈るクリスチャンは成長する。祈る教会は祝福に満ち溢れ発展するのです。祈る家庭は主の恵みと祝福にあふれるのです。キリストが約束して下さっているのです。
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」
(ヨハネ15:7、8)



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