阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年8月10日
「幸いな平和を造り出す者」
エフェソの信徒への手紙2章14−17節


 NHKの大河ドラマ「黒田官兵衛」が、多くの人々の関心を集めています。ドラマは娯楽として視聴しますが、平和な時代に住む者が現実にあの下剋上の戦国時代に生きるとしたら、それは苦難としか言いようがありません。娯楽は人の悲劇や苦しみ、生きる為の殺傷という出来事を楽しみにするのです。異次元の出来事であり、自分に直接関係の無い事、仮定であると承知して見るのです。悲しみ、苦悩を娯楽とするという自己矛盾を越えて、娯楽でありながら、人を教え、また、そのドラマを批判する事を通して、自分の行くべき道を求める事もできます。そういう意味では、昔の出来事を通して未来を学ぶこともできると言えます。
 この時代に平和に生きる事を人々は願っていたことは間違いはありません。然し、権力闘争の混乱の中で権力を収奪し、維持する権力者にとって戦争が正当化されるのです。民族の維持と繁栄が自己正当化される流れの中で「民族の為に」が、全ての国民に犠牲を強いられることになります。近代に国家が成立する時代にまたしても「国ために」が戦争の名分となり、国民の犠牲の理由になります。確かに、国家の平和と平安があって生きる安定があるのです。戦争が悲劇であり、罪悪であるのです。然し、身近な家庭の中で同じ事が言えます。近隣地域、勤め先の職場、社会の営みの全ての中でも同じことが言えるのです。生きる事は争いであるとさえ言えるのです。
天地の創造より、人の歴史の営みを通して神様は「愛」を示し、イスラエルを選んで真実の神の国の回復「平和」の道を示さんとされたのです。神様から離れ、生きる事が争いと戦いとなった悲劇の人々の中からイスラエルを選ばれ、その神様に出会う、苦悩の歴史が旧約聖書に示されているのです。そして、旧約の歴史で神を待ち望むイスラエルを通して真実の神の国の回復と平和の道がイエス・キリストによって明らかにされるのです。
聖書は明確に宣言します。「実に、キリストはわしたちの平和であります」(エフェソ2:14)8月15日は1945年太平洋戦争が終わった事を記念する日です。この戦争を通して日本では国家神道を支配原理として思想信仰を抑圧し、弾圧したのです。国家の為に人身を踏みにじり、国家とは人民の為でなく、国家体制を守る。即ち、国家、即ち、天皇を守る事にあるとして天皇を守る事を為政者、軍部は国民を犠牲にする理由にしたのです。古来、日本の歴史では天皇自身が権力の座を望み、関わる時に内乱が起こるのです。国民的な統一に聖徳太子は「和をもって貴しとすべき」とう統治理念を指定された事が、国の成り立ちとして伝承され、天皇は平和のもとであり。安泰の基とする流れがあるのです。勿論、厳密には力の闘争による経緯はぬぐい去ることは出来ません。
 日本の歴史は、平安時代から天皇を中心に、貴族が摂関家として世を治めていたのです。平安時代は正に平穏無事な400年間であったのです。平安末期に武士階級の台頭から、戦乱の時代となり、応仁の乱を通して戦国時代となります。「武士道とは死ぬ事と見つけたり」という、価値観が出来、今日あっても明日の無い人生に無常を覚え、栄西、道元によって導入された禅の道を武士は求めるようになるのです。無常を悟る事、何にも捕らわれない無の世界に、心の平安を求めたと言えます。そして力ある者が弱者を支配して封建時代を迎えるのです。忠義を中心に立てられた生活基盤は、世襲の世の中で「家」を大切に、ひいては「国」(大名家)に忠である事が生き方の根拠となっていったのです。このような世情の中で、庶民はこの世に夢も希望もなく、抑圧と身分差別の軋轢で、この世の希望からあの世で与えられる平安に道と救いと解決を求めるようになり、それを浄土と真宗に求めたのです。そこには現世の諦めしかないのです。
近代の戦争の時代には、人間は鉄砲の弾と変わらないように使い捨てられました。いつしか人間の尊さ、命の大切さの思想は失われてしまい、日本には人権意識が芽生えなかったのです。欧米列強の植民地主義、帝国主義の世界の流れの中に流されて、巻き込まれる事になり、太平洋戦争の悲劇となります。軍部の思い上がりと、想像を絶する戦略で、敗戦が続き、原子爆弾投下の悲劇で終止符を打つのです。沖縄戦の悲劇を見ながら、特攻隊の突撃を強行し、沖縄に向けて出撃した戦艦大和は、3000人の将兵を海の藻屑とするのです。そして“一億玉砕”を叫びながら、軍部は滅亡の道を歩むのでした。広島と長崎では一瞬にして21万人の市民の命が失われたのです。軍部は実態にようやく気が付き、天皇の裁可で終戦を迎えるのです。軍部が統括した政治の恐ろしさを国民は痛恨したのでした。絶対主義の恐怖、愚かさ、非道さ、恐ろしさを経験したのでした。この戦争の苦悩と悲しみ、そして愚かさを噛みしめ、再び、戦争をしてはならないという平和憲法を制定したのです。確かに新しい憲法の原案は、占領国アメリカの提示したものであるのです。然し、今や国民の80%はこの平和憲法を是とするのです。新憲法では「天皇は、天皇を日本国と日本国民統合の“象徴”と規定する。その地位は、主権者(主権在民)たる日本国民の総意に基づくものとされ…」[前文]とあり、紆余曲折する中で天皇は国民の統一と平和の象徴として形成されてきた歴史の誇りであると言えます。今こそ真実の平和をしっかりと理解して守る事が求められています。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」(エフェソ2:14)平和の根源としてキリストを告白しています。そして使徒パウロは、「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。」(コロサイ3:15)と記しました。この平和の原理は、「愛は、すべてを完成させるきずなです。」(:14)に示しています。「一つ」になる事は、「愛し合う」事が出来るからです。「愛し合う」事は、「一つになる」事です。愛し合う事は信頼であるのです。「キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2:15−16)。神様は「平和の源」です。(ロマ15:33)。自己欲と弱者を支配し、蹂躙する闇の支配者に対して、その敵意という罪性を粉砕するために「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされ」ました。(エフェソ2:16)。神に敵対する罪、破壊する悪、抑圧する欺瞞、もろもろの罪の源を御自分の御子を贖いとして犠牲にし、十字架でその敵意を消滅させられたのです。キリストにある平和こそ、どのような人の罪をも赦す神の約束に基づいていて築かれているのです。
第一に、赦され得ない罪が赦されるために、神は御自分でその御子イエスを犠牲にされたのです。ヒルティの、「赦す事は忘れる事である」という有名な言葉があります。人は過去の罪をいつまでもしつこく覚えていて、数え上げ、批判し、繰り返し思い出すものです。それが世間です。然し神は、「わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」(ヘブル8:12)と言われるのです。赦しの無いところには平和はないのです。
第二に、赦しの前に「懺悔」がなければなりません。罪の自覚の無いところに罪の赦しはないのです。和解の前に争いと対立の原因を理解して赦される事になります。古い自分の、神様を見失った暗黒の歩みをしっかりと整理して、完全に新しくなるのです。「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(Tヨハネ1:7)と指摘しています。
第三に、平和は、絆によって成り立ちます。絆は「愛」で成り立ちます。真実の愛は信頼で裏付けられるのです。信頼のあるところに平和が成り立つのです。信じ合える事こそが平和の鍵であるといえるのです。騙し、裏切る、陥れる、嘘をつく、そこには主にある信頼はないのです。罪は、信頼の破壊であり、愛の崩壊であるのです。
第四に、平和な関係は愛が生きている事にあります。「思いやる」心こそは、平和な関係の証しであるのです。愛する事は、「関心を持つ」事であるのです。平和は絆で結ばれる友好のあかしでもあります。
最後に、イエス様の山上の説教に、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)とあります。平和を実現する事は、神の子と呼ばれているクリスチャンにとって大切な事です。言いかえれば平和である事は自明の事であると言えます。主は言われます「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」(5:11)。正に、無抵抗を提示されているのです。このように広い心を持って生きる事は難しい事です。然し、この御言葉こそ、イエス様が示された十字架の愛の姿勢であるのです。敵対し、不条理な罪を犯している時にも、どのような時にも、その人の為に祈る祈りこそは、十字架で祈られた主イエス様の祈りです。主は敵対し、迫害する人々を前にして、「父よ、かれらをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈られました。現実に生きる時に、このイエス様の心を持ち、平和の実現の為に忍耐する心を聖霊に助けられて、いつも持とうではありませんか。家庭で、職場で、世界が平和であるように平和の実現の為に祈り、努力しようではありませんか。
世界が平和であるように、イエス様の御心を実現しましょう。二度と戦争が起きないように、心を合わせて祈ろうではありませんか。世界の人々が信じ合い、神の愛に目覚めて、真実の平和が実現出来るように!!!


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