阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年8月17日
「人を生かす目標の力」
フィリピ3章12−17節

 夏の風物詩は、甲子園、夏の高校野球です。近年では野球技術のレベルも数段あがり、素晴らしいプレーが多く見受けられます。甲子園に出場出来ただけでも一生の思い出になるでしょう。春の優勝校の京都の龍谷大平安高校が、良い試合になると思っていましたが、何と初回に連打されて5点を失いました。こんな筈ではなかったのですが、控えが登場して抑えましたが、打撃及ばず1点で大敗したのです。エースのピッチャーの疲労によるものと思われます。京都府の高校野球参加校は78校であり、地域試合で既に78校が激突するのです。連日、連投の投手の負担は計り知れないといえます。極暑の炎天下で闘う高校生を見るにつけ、残酷にさえ思える事があります。私は平安のピッチャーの思いを推し量ることができます。監督を始め、誰もが出来ると期待した結果です。控えが0点に抑えた事でも平安のチームには投手力があったといえるのです。ともあれ全国の高校球児が優勝を競う背景には、言葉にならない修練と鍛錬が積まれてきたことでしょう。そして野球はチームプレーであり、監督を始め、選手や、控えにある一人一人のメンバーに至るまで自己訓練にいそしむだけでなく、力を合わせ、協力し合うテームワークの積み重ねが、優勝という目標を達成する事になるのです。
 目標こそ人を動かす力であり、エレルギーである事が分かります。クリスチャンの信仰生活の勝利は何を目指すのでしょうか。今年の目標である「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら走ろうではないか。」(ヘブル12:2)に尽きます。今は年度の後半に入ったところです。確かに信仰生活は築き上げていくものであるのです。聖書は「既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」(フィリピ3:12)と記しています。完全な者になっているのではないのですが、「キリストに捕えられている」のです。イエス様は罪深く欠点の多い自分を、イエス様に出会い、イエス様を受け入れ、信じる事によって、赦し、受け入れて下さっているのです。聖書はハッキリ宣言しています。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソ2:8)救われたのは、クリスチャンにせられたのは「恵みによる」のです。信じて救われた。信じて神の子としての立場が与えられたのです。十字架においてイエス様が身代わりとして私達の罪を贖われたのです。「イエス・キリストに捕えられている」とは正に、神の恵みと愛によって「未完成のまま」であっても、正しい者と認めて受け入れて下さったということなのです。恵みによるのです。この事を忘れてはなりません。その恵みによって「なすべきことはただ一つ」(:13)です。キリスト・イエスが人生のゴールの時に下さるお言葉、「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」(マタイ25:21、23)。この言葉こそクリスチャンの目標とする姿勢であるべきなのです。一時もイエス様から眼を放してはならないのです。
 クリスチャンとしての資格、身分はイエス様によって保証されているのです。「このようにして、イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです。」(ヘブル7:22)と言われています。トマス・ア・ケンピスの「キリストの倣いて」の最初に、「『私に従う者は、暗闇の中を歩くことはない』と主は言われました」とあります。(ヨハネ8:12)。「このキリストの言葉は、 キリストの人生と人格にならいなさいという、私たちへのアドバイスです。」と指摘しているのです。これがわたしたちのなすべき事です。救われていながら、神の子として「暗闇の中を歩む」事は悲しい事です。この暗黒は、罪悪を示し、空しい虚無を示しています。迷いと敗北であるのです。人は困窮の時、悩む時、患う時、迷う時があるのです。如何なる時にも主と共にあれば、主を信じる者には聖霊が共にあって“呻き”“悩み”助け、執り成されるのです。「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ロマ8:26)聖霊の導きこそ、イエス様に従うことであるのです。
イエス様に従う事はとりも直さず、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(ヨハネ15:7、8)という御言葉の通りです。イエス・キリストに繋がり、イエス様の御言葉を心にとどめるならば、願いは聞かれる、勝利者になると約束されているのです。この“繋がる”“いつもある”という言葉は「メノウ」という言葉で、英語で「インデュエル」といって、「その内に住む、生活する」という意味であるのです。
イエス様に「従う」事は、イエス様の「言葉」に生活する、生きる事にほかならないのです。だからこそ、クリスチャンの勝利的な根本的な信仰姿勢は、「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。」(コロサイ3:15,16)と教えられています。キリストの言葉には命があり光があります。暗闇を照らす光です。「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」(詩119:105)
 今日、人々のテレビの視聴時間は、一日在宅する女性は平均5時間、勤めている人でも平均3時間だと言われます。報道番組、娯楽番組、教養番組であっても何気なく時間を過ごすのです。聖書をどれだけ読むでしょうか。どれだけ祈るでしょうか。聖書を読まないクリスチャンは成長しないのです。祈らないクリスチャンには活ける神様の恵みは遠いものです。光がなければ部屋は暗いように、聖書を読まず、祈らない魂は霊性の闇に居るのです。「キリストの言葉が輝く時」闇の中を迷う事がないと約束されています。
 自分が何をしているのか、何を目指して走っているのか分からないで走る事は無意味です。旧約聖書のサムエル記下の18章にダビデ王の子、アブサロムはダビデに謀反を起こし、戦いの果てにラバに乗って走っている時、木に首をひっかけて宙ぶらりんになっているところをヨアブは持っている木で心臓を突き刺し,家来たちが止めを刺したのです。この出来事を
ダビデ王に報告する報告者を派遣しようとするのです。身近な祭司ザドクの子であるアヒマアツが報告に行くと言うのです。反逆者が死んだのです。然し、司令官であるヨアブは反逆者と言えども王の子が死んだのだから父ダビデがどのような気持ちでいるのかを推測して、傭兵であって心情的には遠いクシ人の兵士に報告する使いに出すのです。然し、アヒマアツは戦勝の良い知らせである事に気を取られてその事を王に報告して軍功を立てようとするのです。既に、クシ人の兵は出発して走り出しているのにアヒマアズは走り始め、近道を通ってクシ人を追い越して、ダビデ王に報告するのです。「良い知らせです戦争に勝ったのです」と言うのですが、王はわが子アブサロムの安否を知りたいのです。出発の時、誰が行くのかの論争の為に、何が起こってどうなったのかを事情が解らないままで、兎に角、王のところに、勝を知らせる事だけでした。ダビデは詳しいわが子のその後を知りたかったのです。やがて、後からクシ人が走ってきてわが子の訃報を知るのです。そしてダビデはわが子の為に悲しむのです。この出来事は物事を伝えようとしても、何のために、出来ごとを確認しないままで走る、行動する愚かさを教えています。信仰の導き手であるイエス様を目指して、用意されている償与が何であるのかを明確にする事が大切です。
鍛錬なしに勝利はありません。平安のピッチャーが疲れているのを見通せたら勝負は互角でした。いや勝利したかもしれません。教会にあるクリスチャンは人生のレースをイエス様と走り、そして主を信じる兄弟姉妹と共に互いに理解し、重荷を分かち合う事が主にある者の愛の証しであるのです。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ロマ12:15)とある通りです。苦楽を分かち合う所に主にある愛が生きるのです。「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4:11−13)“全てが可能です”これは勝利の告白です。家庭において、教会において、一人一人の日々の歩みの中で主の言葉、主の愛が満ち溢れるように、イエス様を見上げ、イエス様の言葉を聴き、イエス様の祝福の実を結びましょう。人生の終わりに「忠実な僕、わずかなものに忠実であった。今日、主の喜びに入りなさい。」と言うお言葉を期待して、主に喜ばれる事を願い進もうではないか。
「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」(エフェソ5:10)
「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」(Uコリント5:9)



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