阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年8月24日
「試練を克服する信仰の命」
ヨブ記1章1−22節

 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。(ローマ12:15)人生には思わない事が起こります。人は苦楽を共にし、共に泣くところに慰めと再起の希望を持つ事が出来ます。先日の集中豪雨で、広島で起こった土砂災害による被災の映像のニュースを見て、心が痛みます。未来のある幼い子供たちの犠牲の知らせに涙が止まらない。もっと生きてほしかったお爺ちゃんお婆ちゃん、若いお母さん、お父さん、人生の働きを終え、これから好きな事が出来る時を迎えていたお父さん、お母さん、犠牲になった人の年を知るたびにその人の胸中を察しながら又、残された人々の悲しみと苦悩を思い巡らすのです。
 人にとって辛い時、辛い思いを共にして、共に泣いてくれる人がいる事はどんなに心の支えになるか分りません。また、喜びを共にし、真実に喜びあう事が出来る人がいる事は幸せです。
 キリストを信じる生活は、イエス・キリストと共に生きる事を意味します。聖書には「この方(キリスト)は常に生きていて、人々の為に執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救う事がおできになります。」[ヘブル7:25]とあります。また、「わたし(キリスト)は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)と約束されているのです。この世には人を区別したり、差別したりする事があります。男女の差別、貧富の差別、容姿の差別、知力の差別、能力の差別、職位の差別、長幼の差別など数えればきりがないのです。その事により人を支配したり、区別したり、見下げたり、侮ったりする事が、争いとなり、いがみ合いとなり、不信となり、憎むことにもなります。然し、イエス様は、どのような人も、人として大切にし、かけがえのない者として愛されるのです。誰も相手にしない道端の物乞いにも、人から遠ざけられる孤独な者にも、イエス様は共にいて下さるのです。
 苦悩と逆境にある人々に真実の平安の道を約束されるのです。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」(ヨハネ14:27)
 人生には何が起こるのか分かりません。人は、試練と困難という逆境の中にあっても生きるのか、を問うのです。その問いに答えられたとしても、「生きる」という課題は自分の心の中に問い続ける事になるのです。特に自然災害は、生きるものにとっては正に不自然であるのです。自然は生き物を生かし、はぐくみ、育てるのです。しかし、自然の変化の成り行きは生き物にとって、人にとって災害となる事があります。どのように問いかけてもその答えは出ないのです。然し、現実の苦難の中で神様の恵みに出会い、信仰の希望によって逆境を克服させられることもあるのです。
 ヨブ記の物語は、人生の日々にどのような異変があっても、神様を信頼することによる揺るぎない恵みを教えているのです。ヨブは族長の時代を背景にした物語であると言われています。10人の息子、娘に恵まれ、多くの家畜を持っており、国一番の富豪であったとあります。ある時、神様の前に天使の集いがあり、サタンも来たとあります。そこでサタンの人間観が語られるのです。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」というのです。人は所詮、物事を損得で考えて生きるものではないか、神様が善意で、愛であるならどうして苦難や、試練に合わせるのであろうかというのです。人は、そのような苦しみの中で神様を呪うに違いないと結論付けるのです。 確かに、「繁栄の神学」という主張もあって、神様は何でも出来る、ビジョンをもって祈るなら答えて下さり、成し遂げる事が出来ると言うのです。然し、時として逆に試練に追い込まれその行く道すら見えてこないこともあります。病気が治らない事もあります。辛い苦悩に突き当たる事になります。悪意に満ちたサタンはこの現実を押しつけて、人間は言うではないか、「神も、仏もあるものか」。これが本音だろうと。神様はこのサタンの言葉に対して、ヨブにその通りに試みよと言われるのです。ヨブの息子たちは順番にそれぞれの家で宴を催すのですが、長兄の家で宴をしている時、ヨブの元に他民族の略奪が起こったとの知らせが入りました。さらに、その報告が終わらないうちに、放牧している多くの家畜が雷が落ちて全滅したというのです。残ったラクダもカルデヤ人の襲来で奪われ、牧童は皆殺しになったと言うのです。更に、長男の家での宴の時、突然、大風が吹き荒れて、家屋敷をなぎたおし、子供たちが皆死んでしまったというのです。然し、ヨブは地にひれ伏して告白するのでした。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ1:21)このような絶望の中でヨブはなお神様の善意と御心を信じるのでした。そして、2章で神様はサタンに「ヨブは、無垢な正しい人であり、わたしを畏れ、悪を避けている。」(2:3)と言われるのでした。然し、サタンはなおも「彼の健康をなくしたら、彼の骨と肉にふれたら、あなたを呪うであろう。」と言います。神はサタンを思うようにさせられるのです。ヨブは恐ろしい皮膚病になり苦しみます。それを見ていた彼の妻は、とうとう「どこまで無垢であり続けるのか。神様を呪って死んでしまった方がましですよ」と言います。
ヨブは言うのです。「『お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。』このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。」(2:10)のです。
此処にヨブの示している事は、人生の不可解な出来事、出口の無い暗闇、解決のつかない闇の現実に、光、希望、よりどころを神様においているという事です。「人は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」という言葉は、どのような事があっても「ほめたたえる」、即ち、「主は、素晴らしい」、心からからの告白です。神様は苦難の中にも新しい希望の計画を持っておられるのです。大切な事として覚えなければならないのは、見えるもの、存在する自然や、形ある物は変化し、消滅し、移り変わるのです。ヨブは、「わたしは裸で母の胎を出た、裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。」と告白するのです。そして「神から幸福を戴いたのだから、不幸も戴こう。」と言うのです。それだけでなく「主の御名はほめたたえられよ」と主を賛美するのでした。
イエス様は、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25、26)と言われました。死は誰にとっても、不安で悲しい事です。然し、キリストは、「わたしを信じる者は死んでも生きる」と約束されているのです。キリストを信じる者は永遠の命に生かされているのです。永遠は変化の無いことを言います。変化と消滅の今の時を、変わらない永遠に生きるのです。そして、やがてキリストの再臨の時、全く新しい再創造が実現するのです。 災害で命を亡くした幼い子供、もうすこし生きたかった高齢者、家族に思いを残して亡くなった父母、突然起こった出来事に悲しみを共にしながら、この苦しみと悲しみにあっても、どのような時にも変わらない神様の愛、人と共に泣き、喜び、苦しみ、重荷を背負って下さり、慰めて下さる神様である事を忘れないでほしいのです。
 三浦綾子さんは、朝日新聞創立記念懸賞小説「氷点」でデビューして多くの名作を残された作家です。三浦さんは戦前、戦中、小学校の教師をしていました。戦後、皇国思想の矛盾に悩み退職するのです。退職間もなく結核カリエスになり、7年間、ギブスに包まれてベッドに伏せるのです。そのような中で幼友達によってイエス様に導かれ、如何なる試練の中でも神様はその試練の意味を与え、慰めと愛をもって支えて下さる事を知るのです。その後、様々な病を得、苦悩が重なるのですが、主の導きで結婚された光世氏に支えられて、夫の口述筆記で多くの作品の制作を成し遂げます。生涯、帯状疱疹や癌など病気のデパートと言われるように、病気に悩まされても、夫の愛と協力によって多くの作品群を書きあげられました。78歳まで生きて、苦しみと逆境の中にある多くの人に、神様から与えられた希望と慰め、力と勇気の言葉を送られたのです。
「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4:11−13) ヨブは、やがて心配してやって来た3人の友人の慰めと、さらに境遇について、人生の苦難と逆境について議論します。困難や逆境は神への不敬虔、罪悪が原因ではないか、その事を顧みる事をめぐって議論は尽きません。ヨブは正しく誠実に神様の前に歩んでいたことをその逆境の中で吐露するのです。然し、自分が神様の御前に、自分が思っているような者であるかを示された時、彼は「わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべきみ業をあげつらっておりました。…しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」(ヨブ42:3−6)と言い “ヨブが友人たちの為に祈った時、主はヨブを元の境遇に戻し、さらに財産を倍にされた。”(42:10)と言われているのです。この教訓は如何なる境遇にあっても、善意と愛を持って神様は見守り、道を備えて下さる事を信じる時に、「希望はわたしたちを欺くことがありません」(ローマ5:5)。そして、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Tコリント10:13)という御言葉の通りなのです。主を信頼し、主の愛と恵みを賛美し、その多いなるみ業を褒め称えましょう。広島の災害に会われた悲しみの中にある人々が、主の慰めと心の平安を得る事ができるようにお祈りいたします。



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