阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年9月7日
「新しくなる人生の喜び」
ローマの信徒への手紙12章1-2節

 先月31日、大田兄と愛姉の結婚式が行われ、新しい人生の出発をされました。今日の午後、教会で祝福の会が開かれます。式辞でも申し上げたように、結婚は神様の導きであり、恵みです。神様のご采配であって「摂理」と言います。この言葉はギリシャ語でオイコドメオーと言います。オイコスは家で、家を建てるという意味になります。神様に委ねられた材料で人生の家を建てて行くというのです。新しく家を建てる事は夢があるものです。未来を描くのです。
 マタイによる福音書の25章の14節から「タラントの譬」という、人の生涯を教えている記事があります。主人が旅に出るので3人の僕に財産を預けていくと言う話です。一人の僕に5タラントを預けます。そしてほかの僕には、2タラントと1タラントずつ預けるのです。この違いは、人にはそれぞれに委ねられた賜物があることを指しています。此処でのタラントとは、2千年前のイスラエルの貨幣単価で金の重さを現わしていて、1タラントは相当に高価なもので、今でいえば1千万円位だと言う人もあります。相当な金額であったのです。5タラントと2タラントを預かった人達は、それぞれが工夫して、主人が帰って来た時に喜ばせようと商売をして倍にするのです。然し、1タラントを預けられた僕は、主人がケチで勘定高い人であるのを恐れて、その元手を穴を掘って埋めておきました。そして戻ってきた主人は、儲けて元手を増やした二人には、「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」(マタイ25:21)と言うのです。そして、1タラントの僕は、「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です」と言い、主人は、「怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントをこの男から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。」(マタイ25:24−28)と答えました。
 この譬は、主人に喜ばれる生き方を教えています。委ねられた資産を工夫して生かし、その実を主人に差し出す生き方こそ、クリスチャンの生き方を示しているのです。人の命、時間、生活は神様から委ねられ、預かったものです。主人を喜ばせようとする事こそ人の生きる目標であると言えるのです。「何が、神に喜ばれるかを吟味しなさい。」(エフェソ5:10)と言われています。「何が神の御心であるか。何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:2)神の喜び、主の御名が賛美される事です。それこそ神の栄光が現わされる事を意味します。そこで聖書は、「 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Tコリント6:20)と記しています。生活、人生、全てのものは神様から委ねられている事が分かります。
 1タラントの僕は主人の性格をただ恐怖と不安で受け止め、その報いの怖さに何もできないで、委ねられたタラントを地中に埋めて保管したのです。そしてそれを言い訳にするのです。未来に対する自己喪失は結果を生みださない事を教えています。主人の期待への応答が「創造性」となり、勇気と決断を生みだすのです。
 5タラントと2タラントの僕は、与えられた条件に多少の違いはありますが、基本的に主人の思いを理解して、信頼と勇気によって大きく結果を残したのです。その思いは「主を喜ばせる」ことに尽きるのです。「ひたすら、主に喜ばれる者でありたい。」(Uコリント5:9)ということです。
 ローマ書の12章からは、11章まで主にある救いの御心をつぶさに教えてきた事について、「こういうわけで」であるからと、救われ、神の恵みを受けたクリスチャンに実際の生活の歩みを示しているのです。クリスチャンが主に喜ばれる新しい生活を築く基本と実際を示しているのです。
 その第一に、クリスチャン生活の基本は礼拝する日々であることです。クリスチャンには仏教のように仏壇があるわけではありません。しかし、礼拝は教会でするだけではないのです。日曜日の安息は1、命と存在の根源である、父なる創造の主を記念する。礼拝する事にあります。2、御子イエス・キリストが神の愛を証しするために十字架に罪の贖いとなり、甦られたことを思い、記念する事にあります。キリストにあって一つとなったクリスチャンと共に、キリストの体と一体とされ、神の言葉に養われ、御心、永遠の命を共有するのです。そこで御言葉を聴き、それぞれの家庭でその礼拝が生活されるのです。御心を養われ、それぞれの家庭で礼拝が営まれる事になります。生活の中で、礼拝で与えられた神の御心が生かされる事こそ、礼拝の生活であるのです。ローマ書12章1節には「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」とあります。「自分の体」、それは生活全てを意味します。言い換えれば「全存在」です。「聖なるいけにえ」、その生活を神様が喜ばれる供え物として献げるというのです。それは神に愛されている自分を発見し、愛されている喜びを心から感謝する事になります。神に喜ばれ、和解の祝福を力とする事になります。
「なすべき」と訳されていますが、これは人として当然の祝福の道筋であるのです。この言葉は口語訳では「霊的な礼拝」とあります。原意では、ロギコスラトレイアと言って、霊的という言葉は、「ロゴス」という表現です。これは今日では日用語で、ロゴという風な言葉でも使われる言葉です。英語の訳は「リーズナブル」、これも今や日本語ですが、道理にかなった、理屈に合ったといったような意味です。「理性」という意味であり、「ロゴス」は理性であり、道理にあった、言い換えれば、神の御心にあった礼拝となるのです。
 第二に、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」(:2)。世俗に流されるなということです。世俗の習わしは生活を破壊するもの、誘惑に陥れ健全さを奪う事もあります。「何が善で、何が悪であるかをわきまえる」事が大切です。「この世に倣ってはなりません。」(:2)この世、神のない世の流れに流されてはならないというのです。この言葉は、「この世の図式に」従うなという意味であると、ある注解者は言っています。主イエス様は、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)と言われました。イエス様の御言葉こそは、正しく導く命の道であるのです。(ヨハネ14:6)。
第三に、「むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:2)先ず、クリスチャンはキリストの命に新生したのです。古い人に徹底的に死に、新しいキリストにある人に生まれ変わったのです。「古いものは過ぎ去った、見よ、全てが新しくなった」のです。古き人は死に、キリストにあって新しい神の子として生まれたのです。だからこそ「何が神に喜ばれ」「何が善いことか」「何が御心であるのか」わきまえなくてはなりません。「キリストの言葉を豊かに宿らせる」(コロサイ3:16)必要があるのです。日々の礼拝は、御言葉を聴く(読む)事と、主を褒め称える賛美、いけにえを献げる事です。だからこそ新しく主を崇め、主を見上げ、御言葉によって新しいクリスチャンの生活、人生を築き上げようではありませんか。聖霊に導かれ、聖霊に支えられ、聖霊に教えられましょう。

「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エフェソ4:22−24)


 ページのトップへ
  
2014年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ