阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年9月14日
「家族の絆と永遠の命」
フィリピの信徒への手紙3章20-21節

 人の事を人間とも言います。人が集まる生活を世間と言います。古来、多くの人々が、人間とは何かを定義してきました。然し、長い生活感の中からできた文字に表されている「人間」と「人」の表象文字に意図する事が、うまく表されているように思います。和辻哲郎の「倫理学」という本には、「人は、人と人との間」と表現される人間観が表されています。人は、一人では人ではなく、人と共に生きて「人」であるというのです。その人と人とが営む生活が、「世間」と表現していることは当を得ています。「人」という字も、「二人が互いに支え合う」事を象徴していると言われます。言いかえれば「男」と「女」の人が、互いに支え合う事こそ夫婦であって、家庭の基礎であるといえます。そこから新たな命、人が生まれるのです。
 ですから、「人は人と共に生きる」事によって「人になる」と言えるのです。これは非常に大切な事であるのです。人は本来、誰でも幸福に生きたいと思って生活を営むのです。然し、幸福感は人それぞれに違うものです。そもそも「幸福」そのものに、共通したものがあるのでしょうか。人によって千差万別であって、人によって違うものです。或る人にとってはお金であったり、食物であったり、着物であったり、家であったり、恋人であったり、地位であったり、事業であったりします。自分の幸福の実現をそれぞれが追い求めると、限りなく問題が起こり、ある時には障害になる事もあります。しばしばこの違いが、本来安らぎの元になる家庭の破壊になる事があるのです。夫婦の間で、親子兄弟の間で起こる事もあります。仕事場で、会社でもそれぞれの願いがあって、そのために亀裂が生じる事もあります。
 意見の相違、見解の相違があっても、人と人とが結びあって一つになれるかどうかは、「共に」生きる人の努力によるのです。しかし、自分の願い、理想を実現しようとする時、様々な見解を持っている人を批判したり、裁く事になるのです。
 イエス様は、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(マタイ7:1−3)と山上の説教で教えられています。これは絶えずイエス様の教えを批判し、攻撃していた律法学者やファリサイ人達への言葉に対してであるのです。当時のイスラエルでは、モーセのトーラ(律法書)を基本に、その法的解釈により、日常生活を営んでいました。それは口伝律法と言って、文章にしないで口伝えに伝承するのでした。それをミシュナと言っていました。それはモーセの戒めと共に神聖な権威あるものとされていたのです。ですから、律法を充分に知らない庶民は日常的に律法学者に批判されるのでした。律法に従って歩んでいないという批判であるのです。その律法解釈も、「安息日」には仕事を休めという戒めの適応は、極めて非人道的で厳密であったのです。医者が急患でも安息日には治療が出来ない。家畜が水におぼれても助ける事ができない。火を起こしてはいけない。洗濯もいけないというように規定するのでした。イエス様は、病人が癒しを求めてきた時、祈り、癒されるのでした。これを批判し、有罪にしようとするのです。そこでイエス様は「律法の為に人があるのでなく、人の為に律法がある。」と指摘されるのです。
 「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(7:3)人の目にある“おが屑”が見える。口語訳では“ちり”と訳されています。即ち、小さな、取るに足りない小事を問題にしているが、自分の目にある“丸太”に気がつかないのか。口語訳では“大きな梁(はり)”と訳しています。“梁”は屋根を支える大きな材木であるのです。言いかえれば、丸太で全く目が見えなくなっている。小さな欠点をあげつらいながら、自分はまったく何も見えていない事を指摘しているのです。律法を厳格に規定し、守る事、それが正しい、清い、神様の道であって、それを守ることによって永遠の命を得、神の国の民となる、救われるというのです。その結果は、裁きと差別、対立と憎しみ、反抗と恨みしか生み出さないのです。
 しかし、イエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)言われるのです。そして教会では、イエス様の永遠の命への希望について「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)という御言葉が、繰り返し語り続けられるのです。イエス様が十字架で人々の罪の為に死なれる事こそが、神の愛と、人の救いを示しているのです。律法は、人の現実を教える養育係であって、人の罪深さを示し、神様の罪の赦しと解放を求めるきっかけであったのです。神様の御心は、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3;16)という御言葉で表されています。神様の愛がイエス様によって明らかにされ、神の愛に生きる時、そこに神の臨在があり、神の国の現実を示されているのです。「互いに愛し合う所に神がおられる」(1ヨハネ4:12)と言われるのです。対立と断絶の間には平安はありません。そこは争いと憎しみだけが渦巻く、まさに神の無い世界、地獄であるのです。
 「人が共に生きる」事こそが、人間としての基礎的な在り方なのです。望む事、意見の相違があっても、先ず、互いに理解し、相違を越えて譲り合い、お互いの願いを主の御心によって示し合い、主に喜ばれる事が何であるのか弁える事が大切なのです。互いに主にあって同じ心を持つ時に、人は一つになれるのです。使徒パウロは、「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」(フイリピ2:1−4)と言うのです。
神は人を神に似せて創造された。「神が愛である」(Tヨハネ4:8)それは人も愛で生きる事に神の似姿の根幹があるのです。人が共に生きるという事は、神の愛に生きる事によって成り立つと言えます。愛のあるところに和解があります。和解は赦しによるのです。そこに一致が生まれます。一致は「絆」です。人を完全に結ぶ帯こそ「愛」なのです。そしてその愛は、イエス・キリストによって示された神の愛によるのです。
 人が人として歩み、生き、生活し、共に幸せを共有するのは、イエス・キリストの愛による絆であると言えるのです。

「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。…愛を追い求めなさい。」
(Tコリント13:1−8。14:1)

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