阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年9月21日
「家族の絆と永遠の命」
フィリピの信徒への手紙3章20-21節

 暑くて長い夏でした。夏には盆休みがあって、多くの人は故郷に帰って家族の墓参りをする風習が日本にはあります。これは、普段別れて暮らす家族が集まり、家族の絆を確かめる楽しい時でもあるのです。京都では五山の送り火があり、多くの人が観光で集まります。京都盆地を囲む山々の神仏混淆ですが大の字、舟形、妙法、鳥居の形にかがり火を焚いて、あの世から現世に帰って来た先祖の霊を送るという習俗です。そしてお盆の間には地方の村や町で、その地域伝承の個性のある盆踊りが続けられます。盆踊りは地獄の亡者が、苦しみを解放されて踊るのだと言われていますが、今では、地域の祭りとなって、コミュニケーション、交流の場となっているのです。今では公園や広場でお盆と関係の無い、「東京音頭」や「炭坑節」が流され、地域の町会の有志が開催しています。時代と共に伝承の意味は失われ、「祭」になって、娯楽と交流の場となっているのです。
 どのような宗教であろうとも、人は命と心のつながりを深く大切にしてきています。農耕を営む人々は、先祖が開墾し、築き上げた土地に生活の基盤があります。父母、祖先の労苦を心に留めて今日を感謝する、生きているのは祖先の労苦による事を心に留めて感謝し、敬い、家族の絆で結ばれるのでした。
 今や、社会の仕組みは大きく変化してきています。生活を支える経済の仕組みは一人一人の働きで為され、家も父親中心にしながらも、自立的な女性が参加する社会になり、都市中心の社会となって、高度な経済生活が少子化となっています。また、高度な医術と福祉の充実が高齢化社会となっています。家庭の絆が失われている社会の流れになってきているのです。そして今こそ、人とは何か、家族とは何かを見据えなければ、真実の人の幸せはないと言えます。
 聖書は「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:17−22)と記しています。最初に「遠く離れている。近くにいる人々にも」とありますが、これは神様から遠く離れている、無関心である、関係がないと思っている人と考える事が出来ます。近くにいる人にもその度合いに関係なく「平和の福音」を告げられる、言換えれば、神様を身近に知っている人にも、全く関係がない遠い所にいる人達にも、真実の人間性の回復の為に「福音」が告げられるのです。「福音」とは、変化と混乱の人の営みの流れに、平和に生きる事が出来るという知らせ、“良き訪れ”即ち、平和に生きる事が出来る平安な道を知らせると言うのです。互いに愛し合って、絆で結ばれ、感謝と喜びを共に出来る家族は、どのような試練や人生の破壊が起こっても、心やすらかに平和に希望を失わずに助け合えるのです。「キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2:15−16)とあるように、「人間の敵意」即ち、自己中心、批判、中傷、憎しみ、疎遠、無関心などが人の絆を阻害します。キリストに出会う事によって、「神に愛されている自分を見い出す」のです。「神は愛」(Tヨハネ4:16)であると共に、創造の初め「人は、神に似せて造られた」(創1:27)と聖書が教えるように、「人は愛で生きる」のです。「愛」なくして夫婦も家族もあり得ないのです。神の真実に中心的な命「愛」こそは、人の命であり、人を人として生かすのです。愛を失っては、人は人として生きていけないのです。神を見失う事は、愛を見失う事であり、人間性の喪失を意味します。確かに、神様を信じていなくても人は愛し合えるとも言えます。然し、それは変わってしまうものなのです。人の心は変わります。そして過ちを繰り返すのです。神様の心、真実に愛し合える和解が、希望となります。
 聖書は「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)と言っています。独り子、即ち、イエス・キリストにより愛の原理、神の愛をあらわし、生きる道を示されました。人々は、神の御心ではなく、伝統と権力の迷いの中で愛を見失い、神を殺すという事を自覚せず、キリストを十字架に架けたのです。イエス・キリストは世界の人々の愛の回復による平和の為の犠牲となられたのです。キリストの十字架の出来事によって神様の愛が示され、「一人も滅びる事なく」真実の人間性、真実の愛を回復する為に御子イエスを犠牲にして下さったのです。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」(エフェソ2:14)この平和こそ「永遠の命」です。永遠とは変わらないことです。時を越えて、始めもなく終わりもない不変の命、そこに神の国、天国があります。イエス様は、「神の国はどこにあるのか」という問いに、「ここにある、あそこにあると言えるものでもない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17;20,21)と言われています。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(Tヨハネ4:12)と神の国が示されているのです。変わらない神様の愛に生きる、神の臨在に生きる、神の言葉に生きる事こそ神の愛、永遠に変わらない命、真実の人間性であり、人の幸せの土台になるのです。
 永遠の命は今、神様の愛に生きる事にあるのです。連綿と続く家族の命の繋がりをしっかりと受け止め、神に愛されている自分、神に愛されている家族の絆を大切に、その絆が神の家族として創造の初めに至り、そして命の存在の根源こそ、創造主なる神にある事を思い感謝し、賛美するのです。主を褒めましょう。家族の愛と労苦を偲び、感謝しましょう。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である」(エフェソ2:19)のです。世は変わり、時は過ぎます。永遠に変わらない神の家族こそ、真実の平安と平和に礎であるのです。
 「わたしたちの本国(国籍)は天にある」(フィリピ3:20)。神を信じる全ての人に備えられている故郷です。私達は神の家族です。移ろいゆく今の世界はやがて終わりが来ます。(マタイ24:14)その時、新しい世界の創造が始まるのです。
 先に天に送った家族を偲びながら、神様の御心を深くかみしめ、キリストの愛、神の国の愛を心の中に新しくして、家族の幸福の為にお祈りしましょう。

「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」(黙示録21:1−4)

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