阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年9月28日
「人生を切り開く力」
マタイによる福音書7章7-12節

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタイ7:7,8)
 この聖句はクリスチャンだけでなく世間一般の名言として知られている言葉です。「求め」「探がせ」「門を叩け」という言葉は、人間の努力には結果があるという意味で人々を励ましてきました。実は、マタイによる福音書の5章から7章まではイエス様の「山上の説教」で、その教えが日常のなかで行かされる生き方を示してると言えます。人の道の道理を尽くして示されています。「汝の敵を愛せよ」(5:44)「だれかが、あなたの右の頬を打つなら、左の頬を向けなさい。」(5:39)「狭き門より入れ」(7:13)「人を裁くな、あなた方も裁かれないようにするためである」(7:1)などは一般世間でも知らない人はいないぐらいです。神様が与えられた人の生きる基本的な戒めとして旧約聖書のモーセの律法の十戎にたいして新約の十戎と言われます。確かにイエス様の人の生きる基本的な道が教えられているのです。
 イエス様は人が互いに生きる基本を示しておられます。そこに示されている教えの最終的な結論が7章に要約されていて、その最初に「求めなさい。」という言葉で始まります。「求め」求道し、「門を叩き」努めて学び、修練すことを指し示しており、言葉を聞いて終わるのでなく実行することこそ大切であることを7章の24節から終わりに集約して示しています。
 人生には喜怒哀楽、様々な出来事があります。嬉しいこと、悲しいこと、辛いことなど移り行く日々の生活にはどのような事が起こるか分からないのです。詩篇の23編の4節には「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」と記しています。「死の陰の谷」を行く時も、襲い来る禍を恐れないというのです。死の谷というのは人が経験する解決の糸口がない、試練であり、苦境を指してます。言い換えれば「絶望」であるのです。まさにキエルケゴールが言うように「絶望とは死の病」であるのです。「希望」がなくなるとき、解決の糸口がないのです。直面している「死」、消滅の試練、絶望の困難であるのです。絶望の闇に光が見えません。しかし、「災いを恐れない」と告白されています。その理由は「あなたが私とともにいて下さる。」からです。この「あなた」こそ主なる創造主である全能の神様であるのです。神様を信頼しえ生きる人の境地を使徒パウロは告白しています。「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ロマ8:31)というのです。そして御子イエスキリストによって神様を信頼している人は、はっきりと言えるのです。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。これらすべてのことにおいて、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。…どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない。」(ロマ8:35−39)というのです。そこにはキリストに表された父なる神様の愛への確信があるのです。信じるものを裏切らない。その事実に基づく愛こそが、イエス・キリストに示された神様の愛です。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ロマ8:32)
 このように全能にして愛なる神様が共にいて助けてくださるのです。その方が「求めよ」「探せ」「門を叩け」と言われるこのお言葉は共にもとめ、共に探し、助けてくださるのです。確かに約束の言葉として「神はわたしのたちの避けどころ、私たちの砦。苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない。」(詩46:1,2)というお言葉こそ、クリスチャンの心境であるのです。マタイの福音書7章のお言葉は、父であるものがパンを欲しがる子供に石を当てるだろうかと言われています。魚を求める子供に蛇を与えるだろうかと問われるのです。常日頃、悪さをして手がつけられないような子供であっても良いものを与えるだろう。ましてや天の父なる神は、信頼している者に「良い結果」をくださらないはずがないと教えています。父としての愛が裏付けられているのです。
 「求めよ」「探せ」「門を叩け」というのは祈りの基本的な姿勢を教えているのです。ですから最後に「だから人にしてもらいたいと思うことは、なんでも人にしなさい。」(:11)というのです。神様がどんな時でも助け、支えてくださるめぐみと愛を人にもすることが神様の愛に生きるクリスチャンの愛の生き方であるのです。ともに祈り、共に助け合う、そこに生ける愛なる神様がおられることを教えているのです。これがまさに律法であり、預言者の言葉そのものであるというのです。人が正しく神の子として生きるのには律法を守り、神の言葉、預言の言葉に生きることです。その律法と預言の言葉は愛にしてめぐみに富み給う父なる神の言葉であるのです。
第一に、山上の説教では数々の人の歩むべき道が示されています。それは律法であり、神様の言葉預言です。「思い煩うな」「敵を憎むな」「労苦を共にせよ」というような多くの珠玉の言葉であっても守りえないことが多くあるのです。しかし、神様の命令は、約束として直接法で聞くことが大切なのです。そこにイエス様が示された罪許しと愛の恵が鍵となるのです。「求め」「探す」「叩く」ということは「求めてあげよう」「探してあげよう」「ともに叩いてあげよう」という主イエス様のめぐみの原理がそこに伏流水のように信じるクリスチャンに大きな、限りない可能性を約束しているのです。
第二に、イエス様には諦めはないのです。ともにいて支え続けて下さるのです。ルカによる福音書で11章でも「求めよさらば与えられん」(11:9)という同じ言葉があります。主の祈りを教えて「祈り」の基本的な仕方について教えておられるのです。そこでは夜中に旅行中、立ち寄った友人をもてなす準備がないのでパンを借りる人の話があます。パンを借りに行った家の人は、「夜中で子供も寝ているし、家のものも、もう寝静まっているのです。迷惑をかけないでください」と断るのですが、余りにも熱心に求めるのでそれに答えるというのです。要するに「執拗に」「諦めないで」祈ることを主は教えおられるのです。そして改めてマタイ福音書と同じく、愛にして、めぐみ深い神様は父の子への愛を持ってどのような祈りにも答えてくださることを教えているのです。
第三に、山上の説教、御言葉を学び、主のみ心を知って、その真意を生活に実を結ぶことを祈らねばなりません。そこには共に人が、神様のみ心を分かち合いキリストが約束される愛と平和の幸せを生活で道を開いて行きたいものです。「求めた」希望の道です。「探し当てた」神様の光の未来です。その門の前に立って跪くのでなく「門」が開かれるまで叩き続けるのです。主イエスは、ともにいて、どのような犠牲を払っても父なる神様の約束される道を切り開き、導き、解決と開放を揶揄即してくださるのです。

「イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」(ヘブル7:24−25)

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