阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年10月5日
「福音の喜びに満ち溢れて」
フィリピの信徒への手紙4章4-13節

 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(フィリピ4:4)使徒パウロは常に「喜びなさい」と何度も勧めます。テサロニケ第一の信徒への手紙5章16節でも、「いつも喜んでいなさい。」と繰り返し言っています。神様を信じ、神様の御心である聖書の言葉を生活の道筋としているクリスチャンにとって、日常的な生活のあり方であるといえます。しかし、よく考えると「常に喜ぶ」ことは人間にとって至難の業であるといえます。繰り返して教会で学んでいることですが、人生にはどんな人にも「苦しい」こと、「つらい」こと、「悲しい」こと、喜べないことのほうが多いのではないでしょうか。Tテサロニケの信徒への手紙5章18節は、「どんなことにも感謝しなさい」と続きます。「どんなこと」にも「感謝できること」は、不可能に近いといえます。しかし、それは「どんな時」でも「喜び」「感謝できる」ことができるという神様の約束が裏付けられているのです。テサロニケ第一の信徒への手紙5章では、16節と18節の間の17節に、「絶えず祈りなさい」という言葉があります。祈りが「いつも喜び」「すべてのことに感謝できる」ことを保証しています。フィリピの信徒への手紙4章では、「主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(:5、6)と続きます。それだけでなく「思い煩うのをやめなさい」と諭しています。そして「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」と、イエス様が共におられ、助けられることを示しています。
 「だからあなたも大丈夫」という小冊子があります。その中に堤さんという人の証しがあります。彼は京都の人で、お父さんはハンドバックの販売で成功しました。成功したのは良いのですが、豊かさの中で遊びを覚えて放蕩の末、生活保護を受けるような事態にまでなるのです。そのような中で堤さんはきついバイトをしながら大学の夜学に学ぶのですが、つらい日々の苦しみに、「なんのために頑張るの?」から「自分がなぜ生きているのか」問うようになり、中退して現実逃避、生きる目的さがし、そしていつかは終わるこの世に疑問を持って放浪の旅に出るようになりました。アルバイトをしながら日本をはじめ、ヨーロッパにまで出かけ、ロンドンからパリに移り、街角の公園の一角に見つけたカフェで「ここのようなオーナー」になりたいという夢を抱くようになりました。これならできるとすぐに帰国します。そしてコーヒーショップで働きながらコーヒーを学びました。一年もしないうちにそこを止め、自分でコーヒー店を作りたいと今度は店舗工事を請け負う工務店に入って店の作り方を学ぶのでした。店の作り方を学び、一年そこそこで資金作りのために自分で始めた店舗工事屋が成功して独立し、事業を始めるようになりました。念願のコーヒーショップを経営すると共に、店舗工事の事業が成功し発展しました。
その後順調だった堤さんに激震が走ります。それは愛する母親が癌の告知を受けたことでした。それまで様々な苦しいことがありながら、身近に死と直面して苦しむことはありませんでした。しかし、愛する母の重い病気に直面し、また過去の旅行中の苦しい生活のうちで大宇宙の自然の力を意識し感じていました。奥さんがクリスチャンであったことから、とにかく守り助けてくださいと祈りました。そして手術が成功して5年の歳月が過ぎ、彼は40歳にして受洗します。何もできない自分であるが主が守られるという信仰に生きることの恵みを実感するのでした。
 大きな時の流れの中で、時に流されるだけで何もできないように感じる時程、自分の無力を実感する事はありません。神様はその恵みをすべての人に備えられているのですから、導いてくれる人と出会う前であっても、心を開き、神様の存在を認識し、待ち望む時に恵みを備え、生ける神様の助けを経験させてくださいます。福音書のイエス様の足跡をたどってみましょう。ある時10人の重い皮膚病の人たちが癒しを求めてきたのですが、説教をするのではなく、ただちにこの人たちをいたわり、癒された証明をもらうために祭司の所へ行くように勧められます。イエス様の癒しの御業は、試練に直面している人たちに祈りによる神様の恵みの業を直ちに表されました。ヨハネによる福音書9章では、生まれながらに目の見えない人が癒されます。そして癒された彼はイエス様が誰かさえも知りません。しかし、生まれながらに目が見えない人を見えるようにすることは、「生ける真の神様」以外にはできないと確信し、告白します。ましてや、主イエス様を救い主として信じ受け入れ、神様との正しい関係に導かれる時、まさに「主は近くにいて」下さいます。
主は、最後に弟子たちと別れる時、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがた共にいる」と約束されています。
主イエス様を信じるということは、主イエス様の御言葉に生きることです。約束の実を結ぶためには主の御言葉に生きることです。
ヨハネによる福音書15章では、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(:7、8)とあります。イエス様の言葉があなた方のうちにあるとは、御言葉が生かされ、その御言葉によって生活が営まれていることです。そうであるなら「豊かに実」を結ぶのです。
フィリピ4章では、使徒パウロは「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい」(:9)と言っています。その基本は「祈り」の実践であることを忘れてはなりません。その結果として「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」(:11,12)とあり、口語訳では、「どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。・・・ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。」と訳されています。どのような境遇にも対処する秘訣を心得ているというのです。これがクリスチャンの生き方であると教えています。その根底にある確信こそ、13節の御言葉に集約されています。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(:13)という御言葉がクリスチャン生活の保障となっているのです。
 ですから聖書は「主にあって常に喜べ」というのです。クリスチャンにとってどんなときにも喜びは、祝福の印です。喜びは確信の証しです。喜びは勝利の印です。ハレルヤ!!クリスチャンの人生は喜びの人生です。キリストを信じる信仰の実は「喜び」です。
 第一に、クリスチャンの喜びは「救い」の喜びです。無目的に死を待つ人生ではなく、イエス様によって永遠の命に目覚め、神の愛と命に生かされる喜びを経験することができるようになったからです。キリストによって真実の愛を生きることにより、希望と充実感と生きる目的を与えられたのです。
 第二に、主イエスは信じる者にどのような事も解決できる道を示され、導き、支え、実現されるお方です。主イエスを信じる者は人生の勝利者として約束されているのです。「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。」(Tヨハネ5:4)勝利者には「喜び」が備えられています。いつも生き生きと「喜びに輝く」ことこそ主とともにいる証明であるといえます。
 第三に、主を信じる、信仰の喜びは賛美となって生活にあらわれます。喜びの賛美こそクリスチャンの印です。神の臨在、共におられる聖霊の臨在がある限り、主にある喜びの実が実るのです。聖霊の実は「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5:22)です。この愛の実が人格として備わるのです。クリスチャンは聖霊の恵みのうちにいつも笑顔でいるのです。柔和であるのです。思いやる気持ちでいつも接することができるようになるのです。そして生き生きと生かされている喜びが溢れているといえます。声もはつらつと、気持ちよく主をほめたたえる賛美が生活になるのです。
 常に喜ぶクリスチャンでありましょう。生き生きと輝かしい聖霊の輝きが満ち溢れる生活は、絶えず祈る日々から成長するのです。祈り、喜び、感謝する日々を送りましょう。
主に感謝、主の御名を崇め、主を賛美しよう!!!


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